P893 ご一緒した北海道の方と別れる
【日 時】 | 2007年1月21日(日) 単独 晴れ |
【コース】 | 自宅7:30〜駐車場8:30〜P778 9:45〜P893(稜線・分岐)10:11〜P989 10:50〜林道11:53〜駐車場12:00〜駐車場12:00〜自宅13:00 |
【資 料】 | 2万5千分の1地形図 「大山」「厚木」 |
【始めに】 | 山ノ神と1月5日に、「大山雨降神社」に初詣に行ったおり、山頂からの下りで、雷ノ峰尾根の左手にある屏風尾根を見ながら下りました。 屏風尾根は、急傾斜が続くかなりの迫力のある尾根でした。 また、ふれあいの森から大沢分岐の先にあるP778に登る道も歩いて見たいと思っていたので、2本の尾根を歩く計画が出来ました。 |
カシミール3DとハンディGPSを使用して作成した「GPS軌跡」のページです。軌道が切れたり飛んだりしていますが、
修正してありません。そのような場所は、衛星の電波を受信できない杉林のような場所です。
また、軌道は、1分隔で記録しております。また、画面の大きさに合わせて縮小していますので、
正確な縮尺はわかりませんがおおよそ25000分の1程度です。
この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び
数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平17総使、第87号)
最近、ゲートが設置される林道が多い中で、ここは林道終点の「伊勢原市ふれあいの森」まで入ることが出来るありがたい場所で、大きな駐車場まで付いている。
駐車場で、出発準備をしていると、高校の合宿だろうか、急坂をかけ上がって来る、球児、坂の上には監督らしき人が走る学生に激を飛ばしている。
朝飯前の学生は、かなり苦しそうなの顔だ。 「甲子園 目指してかんばれー」
ふれあいの森駐車場
山頂へ向かう九十九曲がりコースと別れ、キャンプ場管理棟の前を通り、M−KさんのHP「俺の山紀行」で調べた、東屋のある場所に向かう。
水を補給していると、駐車場の隣で出発の準備をしていた単独の登山者の方が来た。
その方も、P778に向かうので、取付き不案内な私は、同行をお願いした。
何回もこの道から山頂に登っておれれるという。
場内をすぎて、下山予定の屏風尾根末端にある鉄の階段を確認して、東屋をすぎ左側の沢にある大堰堤に向かう。(右側にも大堰堤あり)
左側大堰堤、左岸取付き
左堰堤左岸に、尾根に取付く仕事道があり、進むと尾根の上に出る。
あとは尾根に付けられた仕事道で、標高差300mを登るのみ。
同行させえて頂いた方は、北海道から鎌倉に出稼ぎに来ています。
山が好きで、北海道はもちろん丹沢によく来るそうです。
私が定年になったら、北海道の山を1ヶ月かけて登ってみたいと話すと、おすすめの山を教えてくれました。
右側堰堤
その話の中からは、大自然の山々を感じることが出来ました。
登りが緩むころ、左側から尾根が合流し、P778に着きました。
登山道は、ケーキの上の粉砂糖のような雪で、すべりやすい。梅ノ木尾根の分岐までは、両側が急斜面で注意が必要だ。
稜線が近づくと唐沢峠から一般道に合流する。
P778
その後も、北海道の人から、山や木の話を聞きながら、屏風尾根の分岐まで同行させていただきました。
分岐手前にあるベンチで、テルモスのお茶を飲んで、今日初めての長い休憩を取り、ここで、山頂に向かう北海道の方とは別れました。
梅ノ木分岐の新しい道標(大山遭難の影響か)
古い建築資材が散乱する尾根入口から、ふれあいの森キャンプ場までは、ケーブルを目印に下って行けば迷うことはないと思います。
下り始めからの急斜面で、ケーブル下の踏み後を追って行くと、斜面がキツ過ぎてとても下れない場所に出たので左側の植林地内に逃げ込みました。
しばらく、植林地内を下っていくと、ケーブルの位置がわからなくなりますが、とにかく、尾根上を歩くように気をつけます。
急斜面も終わり、平坦になると鉄梯子で鹿柵を越えます。また、下り斜面が強まる頃、鹿柵が迷路のように設置された場所に出ます。
やたらと目立つピンクテープが多く、惑わされやすい場所です。あくまで尾根上を意識して下った方がよいと思います。
ピンクテープに誘われ、鉄梯子で鹿柵の中に入り下りましたが、中に閉じ込められ登り返しました。
平坦な場所
後日談ですが、この場所からは、尾根を右側に外れて沢に下る道があり、ピンクテープは、そちらに誘導するものであったようです。
この場所をすぎると、テープは一つも無くなり、自然林の静かな尾根になりました。
そうです、これを期待していたのだ!!
うるさいくらいのピンクテープの設置はやめましょう
自然林の気持ちの良い尾根を下って行くと、確認した鉄の階段がある、尾根先端部に下ることが出来ました。
静かな尾根
コンビニで仕入れた昼を食べることなく、ふれあいの森駐車場には12時に着きました。
時間も早いので、浄発願寺に寄ってみることにしました。
尾根末端の林道に下りる鉄梯子
「大山寺」・「愛川町の八菅山」・「日向薬師周辺」は、山林修験者の重要な拠点があり、それぞれに修験道があって、修験(峰入り)が明治の初め頃まで続けられていたそうです。
日向周辺では、「日向薬師」が一番有名ですが、日向川沿いに木食(もくじき)修行僧の寺「浄発願寺」があります。
「丹沢の行者道を歩く」(城川隆生著)から
木食とは、穀物を断ち、もっぱら木の実・草の根を食べるという山林修行のスタイルで、安土桃山時代以来「木食上人」と呼ばれる、遊行(諸国を巡り歩く)の僧が各地に現われ験力を持った宗教者として里人の崇敬を集めた。
彼らもまた修験の伝統を受け継ぐ行者である。 木食僧は霊場や行場を個人で巡礼修行し、そして、供養塔や供養仏を造立し、勧進活動を行うこともあった。
その中にはユニークな仏像を全国に残したことで知られる円空(1532〜1695)や木食行道(1718〜1810)らがいる。
浄発願寺開山は、弾誓(たんせい)(1552頃〜1613)という念仏行者で、奥の院の岩屋は弾誓が修行の岩屋として発見したもので、やがてここに「一宇」が建てられ、それが浄発願寺へと発展したと伝えれらる。
浄発願寺が寺院としての伽藍を整えたのは、第4世空誉の時で、罪人の駆け込み寺となったのもこの頃という。
徳川家・藤堂家・有馬家など有力な檀家に支えられた浄発願寺は、世俗の世界から隔離されたアジールでもあった。
浄発願寺は、明治を迎えて修行僧も減り、さらに、昭和13年の山津波で本堂は倒壊、多くの遺物が失われ、現在は日向川の下流に移転している。
その昔、殺人や放火などの凶悪犯を除いた罪人がこの寺に駆け込み、石段積みなどの労
役を一定期間済ますと放免される「罪人の駆け込み寺」として有名だったそうです。
五十三人の罪人が一段ずつ積んだ、五十三段の石段
山津波でばらばらに壊れ50年後に修復された仏像 山津波で移転した浄発願寺
「木食(もくじき)修行僧の寺 浄発願寺奥の院岩屋」
弾誓(たんせい)ゆかりの岩屋は訪れる人が少なく、ひっそりとした時を刻んでいる。