源頼朝が伊豆で旗上げした後、石橋山で大庭景親を総大将とする平家軍と戦い敗れ、土肥実平の案内で背後の山域に逃げた。そして、うまく逃げきり真鶴の浦から房州に船で逃れた。 そして関東の武将の支持を受け、鎌倉幕府を開くことができた。その逃避した山が幕山・星が岳を中心とする土肥山中であり、その逃亡した経路を歩いてみたいと思った。しかし、星が岳へ道を下見したが、竹藪が深く途中敗退となった。 |
2009年7月5日(日曜) 天気:曇り Hさん |
【起点】茅ヶ崎駅7:47〜湯河原駅8:33ー9:00〜幕山公園事務所9:12ー9;35〜幕山10:35-10:50〜南郷山11:35-11:45〜星ヶ岳(途中敗退)〜小道地蔵堂12:45-14:10〜嵯峨沢の湯15:55-16;50〜湯河原駅 17:10 |
国土地理院2万5千分の1 地形図 「 」 「 」 |
カシミール3DとハンディGPSを使用して作成した「GPS軌跡」のページです。軌道が切れたり飛んだりしていますが、修正してありません。そのような場所は、衛星の電波を受信できない杉林のような場所です。また、軌道は、1分隔で記録しております。また、画面の大きさに合わせて縮小していますので、縮尺は正確ではありません。 |
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平20業使、第519号)」 |
【移動手段】 電車・バス |
湯河原駅の鎌倉時代の武将土肥実平像 | 幕山公園バス終点(公園の下) |
幕山への途中から公園施設を見る | 幕山から真鶴半島と輝く相模湾・初島 | |
何度訪れたかわからない位好きな幕山の山頂です。 | 自鑑水 | |
自鑑水は、石橋山の合戦に敗れた源頼朝が、水面に映った己のあわれな姿を見て自害しようとしたのを、湯河原の豪族である土肥実平に引き止められたという言い伝えがあり、自害水とも言われているそうです。しばし歴史ある湧水に思いを馳せます…。 |
自鑑水(ただの水たまりです) | 鎌倉幕府開運街道の道標 | |
南郷山への分岐 | 開運街道?(南郷山への道) | |
山頂 | 山頂から相模湾 |
星ヶ岳への道を思われる踏み跡をしばらく進んでみたが、竹藪が深く、相当の覚悟をもって望まないと突破と不可能と思われるた。今回は下見として途中から戻った。 | 小道地蔵堂跡 石碑には、「治承4年8月石橋山の合戦に敗れた源頼朝主従は土肥山中に逃れ土肥実平の案内でこの地に隠れ潜んだ 小道地蔵堂はそのとき頼朝主従七騎が庵主純海の命がけの計らいで穴倉に隠れ難を逃れた所である」と刻まれています。 | |
湯河原温泉観光協会HPより 石橋山合戦に敗れ、源頼朝主従七騎は土肥椙山(すぎやま)の山中(現寺屋敷後)に難を逃れました。これを僧純海は主従を堂内の穴に匿い身をていして救います。 大庭景親の軍勢堂内に押し入り、頼朝の行方を追求するも、純海これに頑として応えず、責めせっかんの末、ついに絶命。大庭方、引き揚げざるを得なかったといいます。 暮れ近く、穴から出た頼朝が純海の無残な姿にはらはらと涙を流すと、不思議や涙、純海の唇を濡らし、上人蘇生。 かくのごとく奇跡を経て、主従七騎は房州に逃れ鎌倉で天下(政権)取り。晴れて純海の忠誠に報いる為、頼朝は寺領を与え堂宇を建立。 「小道山来潮寺(しょうどうざんらいちょうじ)」(叉、小道山頼朝寺ともいう)の称を送ったと伝えられています。 来潮寺の謂いは吉浜海岸に塩田を与えたとも云われていて、この方が説得力があります。 堂は火災で焼失し、仔細は歴史の彼方。ですが、信仰(小道地蔵再建)は今も残りその消息を伝えています。 |
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頼朝一行を救った純海上人像 | 眼下には、真鶴半島が近い | |
星が岳方面 | 星ヶ岳公園への途中から星ヶ岳 | |
星ヶ岳公園内のサツキの郷 | 星ヶ岳公園展望台 | |
嵯峨沢の湯 (星が岳公園からはかなり下る) |
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