西丹沢・旧水ノ木部落の研究 1




世附森林軌道(写真提供 春さん)


目次


 その1  はじめに


 西丹沢の丹沢湖に流れ込む世附川、その上流に水ノ木(馬印)があります。
大又部落(地蔵平)と同じように、水ノ木にも部落があったよと「峠のむこうへ」さんよりお知らせを頂きました。

教えて頂いた神奈川県立図書館で、「山中湖村史」や「山中湖周辺の民俗(吉田チエコ著)」をコピーし、
その中から関係ある部分を引用いたします。

水ノ木が「部落」や「集落」という定義に当てはまるかどうかわかりませんが、国有林の払下げにより、その権利を取得した人が
水ノ木に製材所を設け、そこで働く人たちが、一定期間住み着いていたことが書かれています。

水ノ木がある山北町の町史には、大又(地蔵平)部落については詳しく書かれていますが、水ノ木部落については書かれておりません。

水ノ木に森林軌道が出来る前は、材木や炭を馬の背に載せて、峰坂峠を越えて鉄道がある駿河小山まで運び出されておりました。
また、平野村は「切通し峠」を越えて入りやすく、水ノ木との係わりが深かった場所です。それは山中湖村史が証明しております。


山中湖村史から関係ある部分を
  その3   平野村について
  その4   駄賃稼ぎ  
  その5   山稼ぎ
  その6   出稼ぎ

と分けて引用させていただき、山中湖平野村から見た水ノ木をみてみます。
調べていませんが駿河小山町史にも、たぶん水ノ木のことが記載されていることと思います。

また、
山中湖村史には、甲相国境紛争についても150ページに亘り記載されています。 山北町の故石田昇さん(旧世附部落?)の書いた
国境紛争とは違い、相対する平野村(山中湖村に合併)の立場で書かれている国境紛争は、違った部分があります。
 その部分も今後書いてみたいと思っています。


 その2  25000の1地形図に見る建物位置


国土地理院に、25000分の1「御正体山」の旧版地形図の謄本交付申請を行い、
昭和7年10月発行・昭和22年6月発行・昭和31年11月発行の三枚の旧地形図を郵送してもらいました。

 

昭和7年10月発行及び昭和22年6月発行地形図  (2枚とも同じものでした)

建物がわかるように拡大しました。
建物は、丸印の中にあります。



昭和31年11月発行地形図



平成元年9月発行地形図(現在販売のもの)



その3  平野村について


山中湖周辺の民俗(吉田チヱ子著)より引用



まず、平野村の状況を知ることにより、水ノ木との関係が理解出来ると思いますので、始めに書きます。

「山中湖村史 第1巻 第1部(上) 山中湖村の歴史概要と自然と人文 序説  
第1節 近世における山中村・平野村・長池村」より、一部を引用しました。

通称「富士山麓」に位置する山中湖村は、徳川時代に村であった山中村、平野村・長池村を母体として発展してきた。
集落という点からみると、右の三つの村に、第二世界大戦以降に急速に発展した旭ヶ丘を加えて、ほぼ、四つの地域集落から成り立っている。
ただし、地籍上からみるかぎり、旭ヶ丘は平野部落の地籍に入っている。このうち、先に述べたように、旭ヶ丘地区は、旧村集落とはまったくかかわりなく、
したがって、近世期ならびに明治・大正期においては、独自の歴史並びに再生産構造をもつにいたっていない。

ところで、山中村、平野村・長池村が、いかなるかたちで村落を形成していったか、という点についてはこれを具体的に明らかにすることは出来ない。
これに関係のある資料がほとんど存在しないからである。 また、徳川時代初期の村の概要についてさえ、明らかにすることは困難である。
ただ、山中村、平野村・長池村には、きわめて小さな規模であろうが、在地勢力を示す者がいたことはが確認される、ただし、長池村においては、
右と類似の勢力があったことは推測できない。 長池村については、一つの集落をかたちづくっていたかのかどうか、いうことも明らかではない。

この時代の山中村、平野村、そして長池村の人々が、いかなる生産を営んでいたのか、ということについても、これを明確に指摘することはできないが、
土質が悪く、寒冷地である、という自然条件は、その時代の農業技術水準からみるかぎり、農産物を主業として生活を行うに、
決して適していないというとこはいえる。
したがって、考えられることは、軍事的な拠点ということを除くと、山仕事と輸送に従事することが生業として考えられるだけである。
山中村、平野村・長池村が郡内地方の他の村々と異なり、特別な手工業の技術を身につけてこれを生業として集落をかたちつくったり、
戦闘軍団としての特殊な技術を持って集団生活を営んでいたり、さらには、この地域が戦略上の重要な拠点として甲州、駿州、相州、豆州などの
領主がここに戦略拠点を構築していた、ということも考えられないことではないが、いずれも、この間の事情のわずかでも明らかにする文書資料も、
または、伝説もないところから、現在のところ、もっとも可能性のある手がかりとして、平野村に現存する文書資料から、この地域の人々が、
少なくても杣稼ぎと輸送に従事していたことしか推測できないのである。この

杣稼ぎの伝統は、徳川時代を通じて「山仕事」に従事し、
村落生活の重要の生業の一つとして位置した。


・・・・・  以 下 略 ・・・・・・・・


その4   平野村の駄賃附け


炭俵を馬につけて谷村へ(昭和8年頃)
道志八里から引用 

山中湖村史 第3巻  第6部 三部落における生活と年中行事・習俗・慣習ならびに部落の組織と規範


第十四章駄賃附け
第三節 平野部落の駄賃附け



平野部落が、「鎌倉往還」を利用した駄賃附けに積極的に加わったとする資料は今のところ見い出されていなく、また、言い伝えられていない。
籠坂峠を越えて駿州から運んだ荷を、「鎌倉往還」からはずれて平野部落を通して吉田方面に運ぶのは、あまりにも遠まわりになり、かといって、山中部落で荷を一泊させた場合は、馬方は山中部落で宿泊するか、平野部落の自宅まで帰り、翌日にもう一度山中部落に行かなければならず、たいへんに不便であり、おそらく、生業としてはひきあわなかったのであろう。

ただ、明治時代初期に、山中部落で余った魚の荷をもらって、馬につけて甲府に持っていったおばあさんの話を間いている古老がいる。
それも、毎日のことではなく、山中部落が何かの都合で運びきれなくなったのを譲りうける程度のものであった。
早朝に家を出て、山中部落で荷をつけて甲府まで行くのであり、帰ってくるまでに二、三日かかった。

 平野部落の駄賃稼ぎというのは、農閑期を利用して、世附山(現在、神奈川県足柄上郡山北町世附部落一帯)に自分の馬を連れて入り、山の製材所から駿河小山(あるいは藤曲)まで材や炭をつけ降ろしたり、逆に荷をあげたりするのが主なものであり、「つけ馬」ともいった。

 世附山一帯へは、徳川時代から平野村が入会地として利用してきたが、徳川時代末期の天保年間に、世附村と平野村とが地盤の所有を争って、大紛争となり、幕府の裁決を受けるまでになった。
この紛争は、平野村が天領であり、世附村が小田原藩の私領であったために、はからずも天領と私領の国境紛争となって発展した。
この時の俚謡に次のようなものがある。
   
ひとつとせ
ひとつひのえの午の歳
甲斐と駿河の国争い
   (領界)
このりょうかいな
ふたつとせ
ふたつふた国同士がけんかして    (以下不明) (平野部落採録)


 この大紛争は、結果的には平野村が破れて、世附一帯の山は小田原藩所領と確定し、したがって、平野村は他国の他村入会という地位に留まったのである。
それ以降、平野村の村民は、世附山一帯では少なくともスズタケ、足駄木などをとっていたことが文書から確認される。

 この土地は、明治初めの地租改正の時に国有地となり、さらに明治二二年に御料地となったのである。

御料地となってからは、入札によりある一定の区域の木の払下げという形式が行なわれるようになり、払下げを受けた山師は、製炭職人、ソマ・木挽・ソリひき・製材職人等を雇って、一括して事業を行なうか、自分はその山に手をつけずに、いくつかに分けて他の業者に小売りをして勝手に使わせるか、あるいは、その山をまず製材業者に入札させ、用材になる木を売り、残りを製炭業者に入札させ、炭となる落葉樹を売るというふうに、木の種類別に漸次下請け業者に小売りをするやり方の三通りがあった。

世附山一帯の駄賃附けには、平野部落だけではなく、「鎌倉往還」筋の駄賃附けの仕事のなくなった長池部落の馬方も入っていたので、以下、平野部落と長池部落を一緒に述べる。

平野部落および長池部落の人々が馬方として入ったところは、地蔵平・法行沢・織戸ノ沢・水ノ木・大棚沢等の地域であったが、接触のあった主な業者は人々の記憶によると、丸三製材所・丸五製板(後に丸共製板と名前を変える)・丸高製板であった。

このうち、丸高製板は、静岡県駿東郡柳島出身の高橋文平という人が明治時代末期からすでに手広く山師をやっていたが、大正時代初期頃に世附山の森林の払下げを受けて、織戸ノ沢と水ノ木の中間へ製材所を作り、下請けさせないで、製材・製炭等を全部一手にやっていた。

最盛期には、二十数世帯、職人を50人ほど使い、長居をさせるために、小学校の分教場を作り、先生を一人おいて、それまで駿東郡柳島・藤曲・小山の小学校に通っていた子供たち二十数人も呼びよせて、父母と一緒に住まわせ、分教場に通わせた。
定款に「バクチをしたら、この山におかない」旨のことが書かれていたと伝えられている。

そのため、当時、影山(世附山)の子供に、「世界で一番偉いのは誰だ」と聞くと、「丸高のオヤジだ」という答えが返って来たというエピソードもある。
 
 丸三製材所は遠州出身の三室某が大正初め頃に水ノ木に製材所を作ったものであると言われている。
規模が大きく、水ノ木には飲み屋があったり、商売女も二、三人いて、一つの部落を形成するほどであった。

平野部落の馬方は大部分が丸三製材所の駄賃附けを行なった。
製材の動力は、板の樋で水を運びこみ、その勢いを利用したものである。

 その後、少し遅れて、青梅から来た人が丸五製板を、水ノ木より下の金山の下方に作った。
丸共(丸五)は自家水力発電もやり、この動力で製材をした。また、オサノコを使い出したのも世附山では丸共が初めで、一度に10枚以上の板ができることになった。

 山の木は、主に用材と炭に半々に使われる。
用材にする木としては、針葉樹の板材にするツガ・モミなど、電柱の肘木や天井板にするケヤキ、へん木(床柱)にするへーた(モミジの類)、へら(平割)と呼ばれ、障子やふすまの骨にする、ふしのないモミジ類などがあり、さらに経木にするマツ・ツガ・モミがあった。

山奥でソマや木挽が伐った木は、ソリひきが二人一組で急峻の山道からソリで製材所まで降ろす。
それらを除いて、用材にならない木が製炭に使われる。

炭焼きも山奥で行ない、できた炭はやはり、ソリひきが製材所まで降ろした。払下げられた山は、丸高のように製材、製炭を一手にやっているころは別として、下請け業者に業種ごとにまかせる場合は、きらにいくつかに山を分けて入札させるか、あるいは、山全体をまず針葉樹だけを入札させ、その次に肘木にするような落葉樹の入札を行ない、それも済むと最後に炭焼き用に入札を行なう。

平野部落の天野音吉という人が丸共から買った山は前者の例である。

平野部落には、このような小規模の山師が最盛期には五、六人いた。

 平野・長池両部落から世附山へ馬方として入るのは、通常は九月末から翌年三月末頃までである。

九月末ではまだ農作業が終わっていないが、農業は家の他の者に委せて、馬方には主に若い者が夫婦連れで入った。

一二月三一日には山から降りて、正月の一日だけを家族とともに過ごし、二日の初荷に旗をつけて山から荷を出すのに間に合うように再び山に入り、以後、4月9日(昭和三年までは旧暦三月九日)の平野部落の石割神社の祭礼をメドに世附山から降りて来るまで、山の中の小屋で生活をする。

この駄賃附けは雪の降る日は休むが、少しくらいの雨の日なら稼ぎをする。

山から降りてからは農作業に専念するが、なかには、妻だけを家に帰して、夏ころまで山に留まる者もいた。

馬は三頭から四頭引いて行く。

 世附山での馬方の仕事は、まだ外が白々としている早朝に、自分の馬の背に「下げ荷」をつけて山を降り、柳島を経由して駿河小山(あるいは藤曲)まで運び、帰りに「上げ荷」をつけてくることであり、山のなかにかけてある自分の小屋に帰り着くのは夜である。

「下げ荷」とは、山で焼き上った炭や、山の中の製材所でひかれた板・肘木・へん木・へら・経木などである。駿河小山駅に各製材所が事務所を置いており、そこが集荷場であった。

小山の町は狭く、馬方で混みあい、事故も起きて苦情が町と馬方双方から出されたので、後に藤曲に集荷場ができて、馬方はそこで下げ荷を降ろし、「上げ荷」を積んだ。

藤曲から小山までは、小山の馬方が馬力で運搬するようになった。

「上げ荷」とは、小山辺りから、消費物資を山に運ぶことであり、主なものとしては、米・味噌・醤油・塩・干物・野菜・ワラ・炭俵・縄などであった。

「上げ荷」は、山に入っている人々のための食物や生活必需品が主なものであり、これらの品物は山師の元締めのところへ置かれ、山師のおかみさんが多少の利益を得て、計り売りに当たった。

また、馬は馬方が自分で飼っているものを使役するわけであるから、馬の飼料は馬方が自分で払う。

山での馬の飼料は、ワラ・トウモロコシ・フスマであり、ワラやフスマは「下げ荷」を降ろしに駿河小山や藤曲へ降りた帰りに銘々が買って、「上げ荷」と一緒に積んで来る。

トウモロコシは、自分の家から持って来ることが多い。

 馬方の駄賃は、「上げ荷」・「下げ荷」とも、荷物とともに荷主の書いた送り状をもらい、「下げ荷」の場合は、駿河小山(後に藤曲)の集荷場へ持って行くと、番頭がいて、送り状とひきかえに受取状をくれる。

この受取状をまとめて、一週間ごととか一〇日ごとに精算をして駄賃をもらう。

駄賃は、大正一〇年前後で、馬一頭に荷をつけて山から降ろし、駿河小山駅まで運び、再び山に帰ってくる一回の往復で二円前後であり、四頭で一日10円とれれば良い馬方であった。

上げ荷をつけて山に帰る場合には、このほかに駄賃が少しプラスされる。
大正一二年の関東大震災後に一時景気がよくなり、馬一頭の一回の往復の駄賃は三円五〇銭くらいであり、四頭で一五円くらいであった。

一番馬につけやすい材は、へら(平割)と肘木であった。

へらは厚さ一寸とか一寸五分と決まっており、何本で一駄と決められていた。

また肘木は太きも一定しており、長きも四尺・五尺・六尺・八尺・一丈と決まっていたので、駄賃は一本につきいくらと払われたから、藤曲あたりの食堂で昼食を食べようという日には、肘木を一、二本いつもより多く馬につけて頑張る楽しみがあったという。

炭の場合は一駄とは6俵であった。

「上げ荷」は、すでに馬が「下げ荷」を運んだ後で疲労しているので、あまりたくさんは積めなく、馬一頭につき「下げ荷」が35〜36貫、「上げ荷」が一五、六貫くらいであった。

 平野部落・長池部落ともに、世附山での山稼ぎがないと生活してこられなかったが、馬方の賃金を山師にたたかれないように、平野部落では、部落の馬の所有者で作っていた馬方組合の役人が、駄賃の値段・馬方の待遇等についての折衝に当たり、「今日は観音講だから馬方に祝儀をもらいたい」とか、「今日は初荷の日だから、酒を買ってふるまってほしい」等の細かい交渉も山師に対してした。

 馬方同志のあいだ(主に平野部落・長池部落出身者)でも、もし誰かが誤まって馬を谷に落してしまい、馬が死んだり、骨折などで使えなくなると、他の馬方たちが金銭を出しあって見舞いをして、新しい馬を買う足しにした。

たいていの場合は、馬の肉を(ケガで死んだ場合でも、病死でも)分けて、世話役をかって出た者が「いくらいくらにしてもらいますよ」と値段をつけ、馬方仲間がその肉を買い、その代金を馬を失った馬方へ見舞い金として渡す。

馬が荷をつけたまま谷に落ちてしまい、荷が紛失したり破損したりした場合も、荷の弁償料は荷主が出す馬の見舞金で相殺されたらしい。

夜中に小屋が火事になり、連れていった馬三頭が焼死してしまった時、荷主から見舞い金として50円貰った、という例が長池部落の馬方にある。その頃の駄馬一頭の値段は五〇〜六〇円前後であり、駄賃附けにはこのくらいの馬で十分であった。


 当時は、どんな後家おばあさんでも馬の二頭は飼っていた、と言われ、二頭飼えば、農作業の他にも養蚕仕事に使えた。

駄賃附けに従事する者は三頭以上飼っている者が多かった。

駄賃は、馬一頭につき払われるので、頭数の多い方が儲けも多かったが、荷をつけた馬四頭を山の中の道で一人で御すのはたいへんなことであった。

 世附山での駄賃稼ぎは、農閑期に夫婦揃って山に入り、製材所近くに小屋をかけて、馬とともに半年ほど居住する出稼ぎ形態である場合が大方であったが、なかには、毎日、日帰りをする者もいた。

つまり、早朝に空馬をひいて家を出て、切通しを通って、一〇時頃に世附山(水ノ木)の製材所まで行き、板や炭を馬につけて、柳島峠を越えて藤曲を経由して小山の集荷場まで運び、荷を降ろす。

帰路は空馬を引いて、藤曲から上野経由で明神峠へ出て、そこから三国峠を越えて、真暗になってから家に帰るやり方であり、10里余の行程である。

この駄賃は日払いであり、小山の集荷場で、送り状と荷を照合した上で、その場で支払われる。

昭和初期に、水ノ木から小山まで一駄(炭だと六俵)で一円二〇銭くらいであった。

つけるものは、炭でも板でもあまり駄賃に差はなかった。

先述の山に半年ほど入って駄賃稼ぎをするのは、主に雪が降って農業のできない時期の大人の仕事であるが、この日帰りルートは、娘や子
供が三月頃から一二月頃まで、雪の降らない時期に毎日行かきれることが多かった。

一二、三歳から行かされて、炭を馬の背につける時に背がまだ足りなく、一俵を踏み台にしないと届かなかったり、カが足りなくて炭一俵を持ち上げられなかった、という思い出を持つ人もいる。

また、一八歳頃から嫁ぐまで馬三頭をひいて、雨の日でも毎日この駄賃稼ぎをした、という明治三二年生まれの老婦人もいる。

雨の激しい日には、草鞋を三足必要としたという。

暗くなってから帰ってくるので、明神峠で馬が言うことをきかず、思案にくれて家の方に向って大声で呼んでみたという経験のある者や、家人は娘がいつまでも帰って来ないので、提燈をつけて峠近くまで迎えに出たという話もある。

 また、世附山でも、もう少し部落に近い山へ駄賃附けに入り、用材を平野の汽船会社へ運ぶ往復五里ほどの道のりを、馬四頭ほどひいて一日二往復する者もいた。

石割山を通って鹿留にある製材所まで往復した者もいる。

また、駄賃附けは、世附山に入るばかりでなく・道志村へ炭や製材をつけに行く者もいた。

早朝に馬をつれて家を出て、道志村で炭や材をつけ、再び同じ道を通って部落に来る頃にはちょうど昼食時になるので、家で食事をして、その後、山中湖畔を通って籠坂峠まで荷を運び、帰路は空身で帰って来る。

籠坂峠には、集荷場があり、道志の炭や材は籠坂峠から下へは御殿場馬車鉄道で運ばれた。

次に掲げるのは、このルートによる駄賃附けの送り状と思われるものである。




明治廿一年五月廿七日

案 内

       七尺六寸(三寸・尺5分)     弐丁
腕 木   六尺                 拾弐丁
        四尺五寸(二寸五分・八寸)   三丁

届 先   委托合資会社
馬 主   六 右 衛 門

立 替

運 賃   一金弐円三拾七銭

出荷主  杉 嶋 武 八

内国通運株式会社 籠坂取引店 印

詮:運賃の2円37銭は,立替との中間に記されていたものであり,どちらの項目に入るのかは明らかではない。



駄賃附けは、確実に現金が入ってくるために、地味の乏しい土地柄なので苦労の多い農業や豊凶の差のある養蚕よりは儲かり、大いに生活を駄賃附けに依存していた。

最盛期 (大正時代初期から大正一二年の関東大震災まで) には、平野部落、長池部落ともに、部落の三分の一以上の家が世附山へ入っていたが、昭和初期でやめざるをえなくなった。

大正一二年の関東大震災により、世附山は崩壊地が多くなり、馬を山に入れられなくなり、きらに奥地に入るソリ道も破損きれ、製材業が一時駄目になったのである。

その後、道路が修復されると、だんだん道がよくなり、自動車も山の奥まで入れるようになり、馬によらなくとも山から物の運搬が可能になり、しかも、短時間で大量に運んでしまうため、馬方は時代にふさわしくなくなった。

また、山の木の払下げも少なくなり、仕事が事実上なくなり、馬方による稼ぎも存続できなくなった。

世附山での駄賃稼ぎができなくなると、その後は、農業に一段と力を入れ、養蚕も規模を広げて、その他に、砂防の土方に出たり、スズタケきり・スゲぬき・マメブシとりなどの山稼ぎや、稲こき・みかんもぎ・苗圃労働・除伐枝うちなどの出稼ぎに力を入れるようになった。

昭和五、六年の一日の土方仕事の日当は、七〇銭〜八〇銭くらいであった。

一月一七日の山の神講は、山師や木挽、ソマは仕事を休んで朝から酒を飲んでいたが、馬方は、山から荷を降ろす仕事に従事していた当時でも、この日は休まなかった。

世附山の馬方が休むのは、一月一八日の観音講の日である。

当時、馬に生活を依拠していた両部落とも、馬の供養は怠りなく、平野部落では馬方組合が馬頭観音を作って祀っていた。

また、世附山に駄賃附けに入っていて、小屋の火事によって馬を三匹焼失した長池部落の羽田嘉三氏は、その供養のために、自宅敷地内に馬頭観音を作って、今でもその霊を慰めている。



その5 山稼ぎ

第15章 山稼ぎ

平野・長池・山中部落(村)はともに、農業条件は劣悪であったために、農業だけでは生活を維持できず・駄賃附け、養蚕、出稼ぎなど、その時代時代によって有利と思われる生業を併せて営んできたが、山稼ぎもまた、現金収入を得るための大事な仕事であった。

江戸時代より、平野・長池・山中部落(村)ともに、挽板・笹板・下駄・足駄本・薪炭・萱・薄・秣等を附け出して山稼ぎを営み、扶食をまかなう一助としてきた。

山稼ぎの場としては、富士山をはじめとする、山中湖をとりまく入会地がおもな場所であったが、平野部落は通称世附山(神奈川県足柄上郡世附村一帯の山)でもかなりの山稼ぎを行なってきた。

これらの地では、わずかの運上金を収めることによって山稼ぎをしてきたのであったが、明治時代初期の官民有区別により、官有地となり、富士山一帯はその後、明治二二年に御料地になり、きらに明治四四年に県有地に変わり、世附山一帯は明治二二年から終戦まで御料地であったため、これらの地で山稼ぎをしたいと思う者は、目的ごとに一定区域の払下げをその時の地盤所有者に申請して、許可を受け、払下げ料を払って利用することが建て前となった。

この払下げは、山一つ全部を申請するような大がかりなものから、スゲぬきのように、年に一、二回入って採るだけのものまで、その規模はさまざまであった。

以下に官民有区別以降に平野・長池・山中部落の行なった山稼ぎの主なものを掲げる。
ここでいう山稼ぎとは、山から採ったものを、そのまま、あるいは加工して商品として売って、生業の一部分にしているものを指す。



 木  伐  り


 富士山や世附山の広範囲にわたる一定区域を、入札によって払下げて皆伐を行なう方法と、木地屋のように下駄材にするサワグルミや木工品に使うハンノキ・ケヤキなどに限って申請をして、小規模の払下げを受ける方法とがあった。

また、払下げ申請などは全く無視して勝手に入山して、これと思う木を伐ってどこかへ売りに行くやり方もあり、大部分の者はこの方法によって山稼ぎを行なった。

一定区域全部の払下げを受けた山師は、製炭職人、ソマ、木挽、ソリひき、製材職人を雇って、一轄して手広く事業を行なうか、その山を細分化し、他の業者に小売りをするか、あるいは、木の種類によって、まず製材業者に入札させ用材となる木を売り、ついで製炭業者に入札させ炭となる落葉樹を売る、というように順次売って行く山師もいた。

平野・長池・山中部落で山師と言われた人々は、大規模に一定区域全部を入札によって払下げを受けた者はいなく、その山師が細分化した山を入札によって手に入れた小規模な山師か、あるいは、製材、下駄材、製炭材など、目的を限って入札あるいは申請し、払下げを受けた山師かのいずれかであった。

ここでは個々のものをあげる。

明治時代後半から大正時代初期にかけて、山中部落の者が経営する製材所が山中部落の北畠や新畑にいくつかできた。

製材業者は山木の払下げを受けると、ソマや木挽を雇って、払下げ区域内の木を伐らせる。

木は当時一本分いくらというやり方で、ソマや木挽に代金が支払われた。 一本分とは約 一・三石である。

一石とは皮をとった丸太の直径一尺、長さ一〇尺のものをいう。直径は目通りで計る。
 
 ソマや木挽は、山に小屋がけをして木を伐る。九月下旬頃から山に入り、まず、住む小屋を丸太で作る。

小屋の大きさは間口九尺、奥行き二間、高さ一〇尺くらいであり、壁はカヤで葺き、屋根はサワグルミの皮を厚くへいで、笹板の代わりに使う。
飲料水は、サワクルミの皮で樋を作り、屋根から伝わって来る天水を溜めて使う。夏には、この溜水にボーフラが湧いたが、この水で炊事いっさいを行なう。

ボーフラも湧かなくなった水は飲むと危険だ、と言われ、水の調達に苦労したことが知られる。

米のとぎ汁で顔を洗うのはかなり清潔好きな者であり、大方の者は山を降りるまで顔を洗わずに済ませた。

水が貴重なので、食事にはなるべく手をかけないですむように、主食には雑穀は混ぜないで、米だけを使った。

その他に、山に持って入る食料は、乾麺・乾葉・ワカメ・味噌・醤油・一斗ガメに入れた焼酎・どぶろく等であり、副食に福神漬を樽ごと持って行くのは、良いほうであった。

その他、大根やジャガイモ等や、食品の補充は、材木を搬出に毎日山に登ってくる駄賃稼ぎの者に頼む。
ワナをしかけてウサギを捕って食べるのが唯一の蛋白源であった。

調理と言っても、鍋は二つで済ませる。その他、石油ランプと石油、木を伐るためにノコギリとナタ、木を運ぶ木ゾリ(炭焼きの場合)等を持ちこんだ。

朝、暗いうちに起きて、朝食を済ませ、木伐りに出かけ、夕方、暗くなってから小屋に帰る。

伐る木は、板材にはツガ、モミなどの針葉樹、電柱の肘木や天井板にはケヤキ、へん木(床柱)にはへ一夕(モミジの類)、へら(平割ー障子やふすまの骨材)にはモミジの類、そのほかに、経木にするマツ、ツガ・モミ等があった。

これらの木をソマや木挽が伐り倒しておいたものを集めて製材所まで運ぶのは、富士山では、駄賃附けを行なっている馬方であり、大方は山中部落の馬方がこれに当たり、世附山では二人一組のソリひきであった。

 また、これらの丸太を製材したものを、製材所から御殿場や小山の集荷場に運ぶのは、やはり駄賃附けをしている馬方であり、山中部落の馬方は山中から御殿場方面へ、平野・長池部落の馬方は世附山から小山方面へ運ぶのに従事した。

 ソマや木挽は、正月・五月・九月・一一月の一七日は、山の神の足を切っばらう、と言って、その日は立木を伐らない。
その日の分は一六日に伐っておく。

また、三叉の木には天狗が棲むと言って、やはり伐ることばしない。

新しい区画を伐り出す山始めの日は、早目に仕事を終えて、御神酒をあげて、無事に仕事が進むように祈り、酒を飲む。

この山始めの日は、日柄の良い日を選ぶ。また、一区画を全部切り尽した時も、無事に終わったことを感謝して、山仕舞として、御神酒をあげる。

正月中、盆中は山仕事はしない。正月一七日は山の神の祭りの日で、山仕事をやっている者は、最寄りごとに集まる。

山仕事とは、製炭、製材(建築・木工)等、山で木を伐る仕事すべてを含む。

山の神の祠は、昔は山の入口にいくつかあった、と言われている。製材業者のように規模が大きくないが、やはり木伐りをする者としては、木地屋があった。

木地屋は小規模ながら払下げを申請して木を伐る。伐る場所は向う切詰や富士山であった。

伐る木は、ハンノキ・ミズクサ・サクラ・サワグルミ・ケヤキ等がその主なものである。

ハンノキは目薬のビンを入れる鞘やオモチャに使われ、ミズクサ、サクラは鍬の柄になり、サワグルミはヤマギリとも呼ばれ、キりの代用品として下駄の甲羅に、ケヤキは盆や独楽になった。

これらの材を製品に加工をして売るのではなく、丸太のままや、ぎっと荒木取りをして、それぞれ、小田原辺りの木工品屋や下駄屋に売りに行く。

木を伐る方法は、やはり小屋がけで行なう。

雪の降らないうちに伐っておき、冬になって自宅で荒木取りをする。また、木地屋を営まないまでも、個人がこれらの木を盗伐して来て、小田原辺りの木地屋へ売ることも多かった。

ソマや木挽を雇わずに、盗伐であろうと何であろうと、丸太を持って来たら、木の値段も含めて一本いくらとして買う者もいた。

その他、小屋がけで伐ったものは、炭にする木がある。

また、小屋をかけるほどでないが、よく伐りに行って山稼ぎとしたものに、貫代木と薪がある。これらは木伐りとは別に述べる。

                                                                                        


                                                                                     
炭  焼  き


焼いた場所は、向う切詰、富士山北麓の外の道の上・南大道端・焼け坂・黒木沢・下り山・大ぜっちょうの他に、平野部落では世附山でも焼いた。

また、同部落は、大正七、八年頃は、明神山の尾根筋のコンボウの頭(県有地)でも、払下げを受けて焼いた者もいると伝えられている。

また、山伏峠の北東のヨウショウガヤでは、戦時中は供出のために木炭組合が炭を焼いたとも言われている。

 炭を焼くには、まず第一に木を確保しなければならない。そのために、木の払下げの申請を出す。

向う切詰や富士山北麓が県有地となってからは、県の林務事務所に直接願い出て、伐採区域や数量などを決めてもらった。

世附山は明治二二年から終戦まで御料林であったために、世附山で炭を焼く時は御料局沼津出張所に払下げを申請した。

業者としてではなく、個人で炭を焼く場合には、秋から春にかけて手がけられる広さは、約五〇〇メートル四方くらいであった。

木伐りを木挽に頼み、自分は炭を焼くだけに専念する人は、もっと広い区域を払い下げてもらう。

 秋になって農作業が片づいた後に、山に入り、小屋がけをする。

小屋の作り方、大きき、および飲料水の調達方法、食料などは木伐りの項で述べたとおりである。

この小屋で、秋から翌年の農作業が始まる五月くらいまで、半年間も泊まりこみで炭を焼く。

仕事がなく、農業の仕つけの時を除いては、夏でも冬でも年間を通じて男衆は山に入って炭焼きをしていた時代もある。

 炭焼きガマは、炭焼き仲間の結いで作る。自分のカマを作るのを手伝ってもらったら、そのお返しとして、仲間が作る時には必ず手伝いに行く。

まず、傾斜地を切りとり、カマの原型を作る。天井を搗きあげた日には、御神酒をあげて仲間と飲む。カマは完成させるまでには一週間ほどかかる。

うまく作ったカマは五、六年間は使用できだ。通常は、一人が二つから三つのカマを持つ。炭にする木は、ハンノキ・サワグルミなどいくつかを除いては、ありとあらゆる雑木であった。

ナラで焼いた炭は、一番高く売れたが、ナラだけの群生林は富士山にはなかった。雪の降る前に木を伐っておき、雪が降ってからも焼けるように木を貯めておく。

朝、暗いうちに起きて食事を済ませると木を伐りに小屋を出て、一日中木を伐って、小屋には暗くなってから帰る。

炭焼きには、夫婦・子供達れで入っている場合も多く、そういう時には、夕食を作る者は早目に小屋に帰り、灯りをつけないでよいうちに食事の仕度をする。

一日に伐る木の量は、腕のよい人で三棚半くらいである。一棚とは、長き三尺の木を奥行き六尺、高さ三尺くらいに積んだものである。
ひとカマには棚木にして四つ半から五つ入る。

大きいカマだと八つから九つ入るが、あまりカマが大きいと、木を伐るのが間に合わない。

棚木五つで、でき上る炭は六〇俵くらいであるから、木の目方の五分の一くらいが炭になることになる。

ひとカマ分の木がたまると、カマに火を入れる。ひとカマが焼き上がるのに一〇日くらいはかかる。

焼き上がるまではつきっきりである。焼き上がってから、さます時間が必要なので、月に三カマは焼けない。

焼き上がった炭をカマから出して、新しい木を入れかえるのは一人ではできないから、家族ぐるみで山に入っていない場合は、あらかじめ家の女衆に何日目くらいには小屋に来るように伝えておき、三人くらいでこの作業をやる。炭をカマから出す時に体がスミで汚れるので、家に帰れる者は家に帰って風呂に入る。

炭俵は、富士山では演習地に生えているカヤを刈って、夜なべ仕事で一晩に一〇枚ほど編んだり、買ったりする。

世附山で炭焼きをすることが多かった平野部落の者は、家族(主に老人)が編んだ炭俵を使ったり、また、買ったりもした。

桟俵の代わりにソダを伐って使う。俵に詰めた炭を山から降ろすのは、富士山ではおもに山中部落の馬力屋に済んだ。

自分で馬力を持っている者は自分でも降ろす。まず、演習地あたりまで木ゾリで降ろし、そこから下は馬力を使う。馬力一台で六〇俵くらいつける。




笹板

笹仮にするのは、クリ、カラマツである。この笹坂については、徳川時代に年貢の一つときれていた記録が残されている。



カヤ
 
平野・長池両部落では、部落の共有地から刈ったカヤのうちから無尽用を除いた残りは、売却したり、炭俵に編んで売ってもよかった。

 梨ケ原・大和ケ原からとるカヤは、三部落とももっばら売却用であった。
カヤ刈り専用地を持たず、またカヤ無尽のない山中部落の者が普請をする時に買いに来たり、炭俵に編んでおくと炭焼きをしている者が買いに来たりした。



スグリ刈り


平野部落は部落のカヤ山から主にとった。その他、梨ケ原や向う切詰でもとった。スグリは編んでエガに作り、養蚕の上?時に自家用に使ったり、切り干し大根を干す時に使うほかに、吉田の御師の家へ日除けとして売りに行った。
御節の家では、富士登山の道者が休憩する時に使う。
                                                                                        
明治時代初期には、世附山にもスグリ刈りに出かけていた。その頃は、「スグリ刈りの山の口あけ」のふれによって全戸が出たものであった、と伝えられている。



スズタケきり

平野部落が通称世附山で行なった山稼ぎである。スズタケはザルや行李を作るための材料であり、切って来るのは平野部落の者であるが、製品にするのは、静岡県駿東郡御殿場の人や、河口湖周辺の船津・小立・勝山地区の人々であった。

ザルには古竹を使い、行李には新竹を使う。

スズタケキりは江戸時代からすでにやっていたが、大正12年の関東大震災以降、世附山での駄賃稼ぎが思うようにできなくなってからは、平野部落の冬の副業としていっそう盛んになった。

同部落の健康な男女は、農閑期の冬の天気の良い時には、ほとんど毎日スズタケきりに世附山に連れだって行った。

早朝、まだ夜の明けきらないうちに、背負い子を背負い、スズキリガマと弁当を持って、一〇時頃に世附山一帯に入る。

平野部落から世附山一帯に入るには、山伏峠を越えて、金山沢、ビリ沢、あるいは菰釣山に入るか、切通しや茨島を越えて茨島落合に出て、大棚沢、水ノ木方面に出るかの二通りあった。

弁当には、トウモロコシ粉で作ったヤクモチを持参し、山に入るとこのヤクモチを適当な場所に全員が置いて、スズタケを切り始める。

スズタケを切るのは、スズキリガマを使う。スズキリガマとは、長さ七、八センチの鎌で、クワキリガマと同じものである。

この鎌を使ってスズタケを一本一本切る。古竹は葉を手でかいてしまい、新竹の場合には頭についている幼葉を切って捨てる。
切る量は、強い人で一日に一七貫目くらいであるが、普通は一日一二貫目から一三貫目くらい切った。

ある程度の時間まで切り、これ以上山にいると、その日のうちに部落まで帰れないという時刻になると、散り散りに山に入っていた仲間を呼びあって、切ったスズタケを弁当の置いてあるところまで降ろし、そこで弁当を食べる。

これが、たいてい午後二時頃から三時頃にかけてであるが、昼食をとっている暇のない時には、帰りの道すがら、ふところからヤクモチを出して、歩きながら食べる。

切ったスズタケは、背負い子に背負って、世附山から降ろし、朝来た道を帰って、部落を見下ろす山伏峠の下、あるいは切通し辺りまで運ぶと、背負い子から出して、家ごとに場所を決めて貯めてあるところに置く。

人々は、そこからは空の背負い子を背負って家に帰る。

家に帰り着くのは夜も遅くなってからであり、スズタケ切りは重労働であった。これを何回か返して、貯めたスズタケが馬一頭につける分くらい貯まると、家の者が馬をつれて来て、自分の家の貯めてあるスズタケを馬につけて家まで運ぶ。

このスズタケは家でさらに一定量になるまで貯めておいて、静岡県の御殿場に売りに行ったり、河口湖周辺の船津・小立・勝山地区のザル屋に売りに行ったり、また、御殿場のザル屋、行李作り職人が部落に買いに来ることもあった。

地蔵平から世附山にトロッコが入るようになってからは、トロッコののぼってくるところまでスズタケを降ろせば、あとはトロッコで山北(神奈川県足柄上郡)まで運べるようになったが、平野部落では、このルートはあまり使わなかった。


スズタケの取り引きは、自動車に乗せて運ぶ場合は、六貫目一束単位であり、河口湖周辺の船津・小立・膵山地区へは一〇貫目一束単位で、馬に四〇貫目から五〇貫目くらいつけて売りに行った。

明治二二年に世附山一帯が御料林となってからは、それまでのように、勝手に山に入って切ることはできなくなり、御料局に申請をして、払下げを受け、鑑札をもらって切りに行くことになった。

次にあげるのは、スズタケきりの払下げ許可に関する出頭命令(葉書)であり、御料局の大磯出張所に行き、鑑札をもらったものと思われる。



世附御料地内スヾ竹払下之件二付談スル義有之侯条来ル十七日実印携帯当所へ出頭スベシ
    
明治三十八年八月十四日

   御料局静岡支庁
   大 磯 出 張 所 団

   南都留郡中野村平野  天野松太郎殿
 

そして、この葉書にはスズタケ採取区域の略図が添付されている。

山中部落・長池部落の者は、スズタケきりには世附山には入らずに、富士山で切ったが、両部落ともほとんどの者はこの山稼ぎをやらなかった。




ス ゲ ぬ き

長池部落が世附山一帯で盛んに行なった山稼ぎであるが、平野部落も行なった。

やはり、冬期の早朝に家を出て、山伏峠を越えて金山や織戸ノ沢へ入り、あるいは、切通しを越えて水ノ木へ入り、世附山一帯でスゲを抜く。

スゲは一カ所にかたまって生えているわけではないので、あちこちと、ひろいながら手で抜く。部落と世附山附近とは、片道四里ほどの道のりであるため、実際に仕事のできるのは三時間ほどであったが、一人が一四、五貫は抜いた。

これを背負って家路に着く。帰る道すがら、弁当のヤクモチを歩きながらかじった。家に着くのは夜七時頃である。

スゲぬきは一冬に一、二回行なった。 

スゲぬきには平野部落が鑑札料を払ったこともあり、長池部落も一部負担したこともー、二度はあったが、たいていは無断で山へ行った。
年に一、二回しかとらないから、監視員にみつかっても罰金を払うこともなかった。

抜いてきたスゲは、夜なべ仕事にスゲナワになっておき、エガズや炭俵を編む時に縄の代用品として使った。
エガズ、炭俵を編むのは、主に年寄りや子供の冬の農閑期の仕事であった。

山中部落では、スゲぬきはやらなかった。同部落では、炭俵は編むが、エガズはおもに平野部落から買った。





マメブシとり

平野部落の山稼ぎのひとつであった。マメプシはクロモジの代用品として、つま楊枝の材料となった。

マメブシを伐るには、鎌では伐れず、小きいノコギリやナタが必要であったが、御料林や国有地へはノコギリ、ナタは持って入れなかったので、マメブシとりは、道志村へ行く途中の山伏峠から長又までの間の通称「横浜林」に冬期に太り、内緒でとった。
道志村の神地には、横浜水道局の出張所があったので、その監視の日をくぐらて行なうのである。

 伐ったマメプシは、静岡県三島辺りから買いに来る人に売ったり、あるいは、部落内でも、農閑期に各家から買い集めて、静岡県裾野あたりの木地屋へ売りに行くのを商売にしていた者もあった。

マメブシとりは山中部落・長池部落ではやらなかった。





サンシヨウの棒 

平野部落の山稼ぎのひとつであった。サンシヨウの棒はすりこぎにするための材料であり、小さいナタやノコギリで伐るために、マメブシとりと同じように、冬期に道志村へ行く途中の通称「横浜林」で伐った。
伐ったサンシヨウの棒は、先は丸味をつけ、持つ方の先端を平たくして、ざっと荒木取りをしてから、五〇本、一〇〇本と束にしておき、御殿場近在から買いに来る業者に売った。

山中部落・長池部落では、富士山辺りから伐って自家用に使ったが、売るほど伐ったことはない。



その6   出  稼  ぎ


山中湖周辺は高冷地であり、富士山の噴火による火山灰地であるために地味も痩せており、農業によってのみ生活をすることはとうてい困難であり、駄賃附け・山稼ぎ・養蚕などにより現金収入の道をはかったが、一〇月末頃に農作業の手間がかからなくなると、季節労働者としての種々の出稼ぎに行き、それもまた生活を支える一つの大きな手段であった。

出稼ぎは、明治時代からやっていた。なお、徳川時代については、この出稼ぎの記録がほとんどなく、また、人々の言い伝えにも残っていないので、明らかではない。いずれにしても、山中・平野・長池の三部落とも、農作業以外のできうるかぎりの労働に従事していたことは事実であり、単一の職業・・・たとえば、農業とか、漁業とか、山稼ぎとか・・・によって生活をたてていたというような家はほとんどなかったといってよい。


苗圃労働

神奈川県足柄上郡の通称世附山(平野部落ではこの辺一帯を影山とも呼んでいる)の水ノ木・大又方面にある御料局(のち帝室林野局)の苗圃に苗を植えに行く。

春の一番先の出稼ぎである。きつい労働ではないので、17〜18歳くらいからの女衆が20〜30人まとまって泊りがけで行く。

募集の仕方は、毎年行っている人を通じて、御料局から今年も何人・何日間の人手がほしいという連絡が入り、部落の中で人を募集する。

平野・長池両部落からいったが、山中部落からはこの出稼ぎには行かなかった。





枝打ち・除伐

やはり御料局からの依頼で、御料林の枝うち・除伐・下刈りをやる。男衆が行く出稼ぎである。募集の仕方は、苗圃と同じく、毎年行っている人に御料局から連絡が来る。山中部落はこの出稼ぎはしなかった。




稲  こ  き

平野・長池両部落では主に未婚の女衆の出稼ぎ仕事であったが、山中部落では男衆も行った。

行く先は、神奈川県足柄上郡から同下郡へかけてであり、松田・曽比・栢山・金手・金子・曽我・吉田島・苅野・早川辺りである。

必要な身のまわり品を持って、平野部落・長池部落の者は三国峠・明神峠を越えて上野・藤曲を経由して、小山まで四時間近く歩き、駿河小山駅で汽車に乗った。

山中部落の者は、籠坂峠を越えて、須走経由で御殿場まで出て、そこから汽車に乗って、山北か松田で降りて(次の「みかんもぎ」に関係がある)、そこから出稼ぎ先の部落まで歩く。

旅行に行くこともなかったこの地方では、特に女衆の場合には、稲こきに行って初めて汽車に乗ることを経験する者も多く、また、自分の家を離れて友達同志で生活できる気楽さもあって、出稼ぎ経験者に聞いてみると、女性は一様に楽しかった思い出として回想するが、男性の場合には、つらい仕事であったと述懐する。

稲こきの出稼ぎは、稲刈り・稲干し・稲こきと約一カ月間続く。

朝、まだ莚の表裏も見分けがつかない薄暗いうちに、田んぼに何百枚と莚をひろげ、稲をこく。

雨の日は戸外での仕事はなく日当はないが、食事を出すので何らかの仕事(女性の場合は繕い物や家の中の掃除、男性の場合は力仕事)はさせられた。

家により待遇にはかなり差があったという。
 
日当は、一例をあげると昭和七、八年から一〇年頃にかけて、男性一人一円二〇銭(歩合による割増も含める)、女性(当時一七歳の例)一人六〇銭であった。

 稲こきが終わっても、家には帰らずに、続いてみかん農家へみかんもぎの出稼ぎに行き、正月近くになってやっと家に帰る者が多かった。

この出稼ぎは、明治末期から第二次世界大戦直前までやっていた。





みかんもぎ

みかんもぎの出稼ぎ先は、神奈川県足柄上郡の山北・岸・内山・松田・曽我・関本・雨壷、足柄下郡の国府津・小田原・早川・石橋・米神・根府川辺りがおもな場所であり、山中湖周辺からは、大正時代からこの出稼ぎに行き始めた。

 稲こきが終わっても村へ帰らずに続いてみかんもぎをする者が多く、やはり未婚の女衆の仕事であった。

足柄下郡で稲こきをやった後に、いったん家に帰らずに、ひき続いて小田原・国府津辺りでみかんもぎをやる者は、稲こきに来た時に、山北で汽車を降りずに松田まで乗り、そこから稲こきの家にまず行き、荷物を降ろし、その日のうちに(あるいは時間がなければ雨の日などを利用して)みかんもぎの家に行き、「今年もみかんもぎに来るかち、よろしく顧みます」と挨拶をしておく。

山北近所でみかんもぎをやる者は、稲こきに釆た時に山北で降りて、まず、みかんもぎの家に寄って、「一一月三日の明治節には、山北でムロさんのお祭りがあるから、それまでには間違いなく来てくれよ。

できれば一〇月末までに来てもらいたい。麦を播くから」と言われ、来ることを約束してから、足柄下郡や同上郡の稲こきの家まで足をのばす。

みかんもぎは稲こきと同様に、あらかじめ部落内には、毎年行っている者や世話人をとおして内々の手紙のやりとりの連絡はあったが、みかんもぎの農家へ行って挨拶をして本式に約束をする。

みかんもぎの日当は稲こきのよりは少し安く、昭和一〇年前後の一例をあげると、男性一人一円、女性一人五五銭くらいであった。

みかんもぎを済ませると、正月も間近かであり、みかん農家からおみやげにみかん一箱をもらった。この地方の当時にあっては、みかんは病気の時でもなければロに入ることのなかったほど貴重なものであったので、出稼ぎの娘たちや男衆の持って帰るみかんが正月中の楽しみの一つ、であった、と言われている。

 稲こきもみかんもぎも、それぞれ決まった家へ毎年未婚の女衆が多く行った割には、神奈川県足柄上郡・同下郡へ緑づいた者は少ないが、母が戦前にみかんもぎに行った家で、戦後、みかんもぎの時期に娘を貸してくれと言われ、後に娘が嫁にもらわれた例もある。

この出稼ぎも稲こき同様に、終戦前までで終わった。




土     方

農業仕事ができない冬期には、土方仕事もおおいにやった。モッコかつぎがその主な仕事であったが、山中部落のように馬力を持っている者は、馬と馬力を引いて土運びに行く者もあった。

部落の中で毎年行っている者や知り合いを通じて仕事が斡旋きれた。行き先は神奈川県足柄上郡松田や駿河小山近辺が多かったが、山中部落からは、馬力をひいて名古屋まで働きに行った者もいる。

日当は昭和初期で男性一人七〇銭から八〇銭ほどであった。


誤字脱字の多い、長文を読んで頂きありがとうございました。また、お疲れ様でした。  取り合えず完成しました。

水ノ木と言うより、平野部落と世附山との係わりや厳しい生活の様子が沢山書かれております。

特に幼い子供が、馬を引いて日帰りで、平野〜水ノ木〜小山〜明神峠〜平野まで、駄賃稼ぎをした様子は当時の子供の逞しさを感じます。

平野では、世附山を影山と呼び、切通し峠や山伏峠を越えて、たやすく入れる場所で、相当に深いつながりがありました。

甲相の国境紛争で、平野部落が主張した境界線も、うそでは無いかもしれませんね?

水ノ木は、駿河小山とも相当につながりがあったことが書かれておりますので、小山町史も調べてみようと思っております。


その7 batistaさんからのうれしい情報

batistaさんから、水ノ木に関する下記のうれしいメールを頂きましたので、ご本人の了解を得て書かせていただきました。


はじめまして。いつも山の子HP拝見しています。

たま〜にS-Okさんの掲示板に書き込みしている、batistaと申します。最近ご無沙汰…
 渓流釣りで世附に通い十数年、地蔵平レポ興味津々拝読しました。
今回の水ノ木レポ!またまた興味津々です!! そして、本題


今まで気になっていた物があります。菰釣橋と大洞橋の中間にある、馬頭観音とお墓の存在です。以前は林道から丸見えでしたが、今はススキで隠れ気が付く人はいないかもしれません。6/27水ノ木沢釣行の際、久々に訪れてみました。

 墓石には、大正五年一月六日 長田***之墓 長田****建と記されていました。10/2樅ノ木沢釣行の際、再訪した時には、まだお墓参りに来られる方がいるらしく、ススキが一部刈られ、お花が取り替えられた形跡がありました。
 馬頭観音に記されている多数のお名前も、以前水ノ木で暮らしていた方たちのものなのでしょう。


なるほど、過去に部落が在ったんだと確信しました。
そして、釣りの先輩から聞いた話ですが、レポート1枚目地図真ん中の建物地は、今は植林が育って分かりにくいですが、二十数年前には、建物の土台が見られたそうで、本人も、何かあったのかな?と思っていたようです。

もちろん、先輩にも、「山の子HP」推奨しておきました。
 それでは、失礼します。 


地蔵平の地蔵尊と同じような、水ノ木にも、暮らしを感じる、建物跡、馬頭観音、お墓、水力発電用の水車等がありました。
そして、今も続くお墓参り・・・・・。  人のぬくもりもあります。
batistaさんありがとうございました。
今後も水ノ木のことを調べ行きますのでよろしくお願いいたします。





その8 小山町史 山梨との往来



柳島山ノ神社


小山町史を神奈川県立図書館で調べてみましたが、水ノ木に関する記載はありませんでした。

水ノ木で「丸高製材所」を経営した柳島出身の高橋文平は、当時の世附の子供から、世界で一番えらいと言われた「丸高のオヤジ」です。水ノ木の製材所に関する記述はありませんでした。

しかし、小山は、水ノ木から材木や炭を降ろした場所です。

御殿場線が東海道本線であった時代もあり、また、山梨方面からの物資を南の地方へ出す結節点。通過点として小山町の位置がそこに見えてくるようです。
今は静かな感じの町ですが、当時は相当に賑わっていたことが書かれていました。

小山町史 第9巻 民俗編 第6章 人と物の動き 「小店と行商」 山梨との往来の一部を引用します。


山ノ神社にある馬頭観音

 小山町史 第9巻 民俗編 第6章 人と物の動き 「小店と行商」 山梨との往来

・・・・ 省略・・・・・・・


柳島は炭焼きや駄賃稼ぎをする人が多かった村であるが、この村の奥から炭を出す人々は、柳島の村人より山梨県の山中湖周辺の村人が多かった。

この人々は一人で5頭から7頭も炭俵を積んだ馬を引き小山の町へ運んだ。

古老の記憶では昭和初期に一日400頭の馬が柳島の谷を往来していたという。

この炭は燃料用のみでなく、横浜の埋め立て用に使う炭もあった。炭は埋め立てても腐ることがないという理由から利用されたといい、これは燃料用炭に比べかなり粗く焼いた炭であった。

・・・・・・ 省略・・・・・・・・

小山町史 第9巻 民俗編 第3章 農家の生産暦と農業技術  馬と農業 多い坂道


・・・・ 省略・・・・・・・

柳島の山奥からの道は、足場が悪い上に道が狭かった。馬方が一頭づつ手綱を持っているわけではなく、馬の背に振り分けた荷が土手につかえ、足を踏み外すこともあり、谷に落ちて死ぬ馬の数は少なくなかったという。

バリキで運ぶ荷の量のほうが馬の背で運ぶよりはるかに多くの荷を運べたが、平地の少ない柳島では、バリキができても、その往来は困難で、運搬はみな駄馬でおこなったという。

・・・・ 省略・・・・・・・



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