大群山(西丹沢)

 山名について(大室山と大群山の違いをネットで調べた)

いろいろな見解

(その1)
本来は大群山と呼ぶのが正解らしいです。オオムレの『ムレ』は『マル』と同じく朝鮮語由来で、山のことを指すらしいです。ですから『オオムレ』とは「大きな山」という意味なんでしょうね。確かに大室山は大きくて目を惹きます。地元では大群山の方が馴染んでいたようですが、国土地理院の地形図が『大室山』と標記したので、今はこちらが主流になっているようです。

(その2)
大室山(おおむろやま)は、古くは大群山(おおむれやま)呼ばれて、大きく盛り上がった山という意味があった。

私は、大群山と呼ぶことにします。
 

◆何時・誰と行ったの?

2011年10月9日(日) 天気:曇り晴れ 単独 

◆コース(時間)

【起点】自宅5:30用木沢出会7:20ー7;30〜犬越路9:00-9:10〜大群山分岐10:50大群山11:00-11:35〜加入道山12:50−12:55白石峠13:15〜用木沢出会 14:55

◆コメント

久しく大群山には行っていない、大群山のブナの大木を見てみたい

参考地図

国土地理院2万5千分の1 地形図 「  」    「   」

地図<GPS軌道 >

カシミール3DとハンディGPSを使用して作成した「GPS軌跡」のページです。軌道が切れたり飛んだりしていますが、修正してありません。そのような場所は、衛星の電波を受信できない杉林のような場所です。また、軌道は、1分隔で記録しております。また、画面の大きさに合わせて縮小していますので、縮尺は正確ではありません。
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平20業使、第519号)」

◆アルバム< >

【移動手段】  車 
     
用木沢出会   犬越路
     
     
     
 大群山分岐    大群山
     
相甲国境紛争と大群山のかかわり  
 相甲国境紛争は、天保12年(1841年)に甲州平野村(現山中湖村)名主勝之進が訴訟人となり、「国境押領出入」として、相州と駿州の6ヶ村18名を相手に当時の中央政府(幕府)に告訴した事件です。そして、弘化4年(1847年)幕府の判決まで、約6年の歳月を経て終結した大裁判であったというだけでなく、現在の神奈川県・静岡県・山梨県の県境が始めて確定した歴史的な裁判でもありました。 
 その裁判の中で大群山山頂にある、大室権現・八幡両社の存在が争点となっておりますので、その内容を簡単にご説明いたします。

下図の赤線は、現在の山梨県と神奈川県、静岡県の県界あり、かつ紛争時に相州、駿河側が主張した境界線です。一方、黄色線は、甲州側の平野村(現山中湖村)と道志村が主張した境界線です。

双方の境界線の主張(下図参考)
(1)平野村が主張したと世附村との村境は。(黄色線)
   三国峠(三国山)〜大棚上〜山神峠
  *水ノ木沢・金山沢・大棚沢・土沢左岸の上流地域でかなり広大面積。
(2)世附村が主張した平野村との村境は。(赤線)
   三国山〜高指山〜山伏峠〜菰釣山  水わけ(尾根筋)
(3)道志村が主張した中川村との村境(黄色線)
   @山神峠〜鞍骨峠(くらほね・現二本杉峠)〜箒沢二俣杉(箒杉)〜犬越路
   A青根村との村境
     犬越路〜神ノ川沢筋〜道志川・神ノ川の合流点
   *大又沢の千鳥橋から上流の流域か?
(4)中川村の主張した道志村との村境
   菰釣山〜大群山
(5)青根村が主張した道志村との村境
   大群山〜尾根筋〜道志川・神ノ川の合流点

*紛争地は、ほぼ今の国有林や県有林区域に匹敵する。

 
黄色線では、大群山は、道志村内となっています。
裁判の中で、道志村から幕府評定所(現裁判所)に提出された文書に、犬越路が境界であるとの根拠の一つに、大群山の山頂にある大群権現は道志村が天文年間に請けて建立したもので、道志村の竹本組小椿神主・宮内が守護してきたこと。


幕府評定所の裁決(判決)で、上記の大群山山頂の大群権現については、

大室山には天文年中に建立した碑、または、親若狭・吉田家より与えられた許可状に、大室権現・八幡両社の神主・佐藤若狭とあるが、係争地以外に支配する権現・八幡両社にもこれがある以上は、主張通り進退していたということも確定ができない。
川村峯般若院・最照が、右の大室権現・八幡山神を前々から支配して年々祭式等も執行していたということについて、口頭でいうだけでこれについての証拠はない。

道志村の主張は、認められず敗訴しました。


◆メモ

  • その他、幕府評定所(現裁判所)の役人による現地見分では、釣鐘山からの山頂に続く尾根を山籠に乗って登ったので「籠尾根」と呼ばれているとの話もあります。実際歩いてみましたが、とっても急斜面もあります。
  • 見分は弘化三年(一八四六)三月二十七日から六月二十六日までの間、勝之進の強い要請で論地の実地見分が行われた。見分は一一五日にも及び、役人延べ人数は4300人にものぼった。また、実地見分に動員された人足は延べ2万人にも及び、周辺関係諸村にとっての負担は大変なものとなった。

◆関連サイト (新しいウィンドウで開きます)

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