1 | 足柄の文化12号 「相甲国境紛争と公判」石田昇著を読んで |
2 | 山中湖村史 「平野村と甲州・相州・駿州国境紛争」 |
3 | 山北町史 「世附山入会争論(相・甲・駿三国国境論争)」 |
4 | 小山町史 「世附山(駿・相・甲三国)論争」 |
5 | 国境紛争のまとめ |
赤線・・・・相州 世附村・中川村の主張した国境(確定した現在の県境)
黄色・・・・甲州 平野村・道志村の主張した国境
(注)
(1)鞍骨峠について(現在の二本杉峠)
鞍骨峠が、二本杉峠ではないかと判断する根拠は、道志村が評定所に提出した文書の中に、「信玄屋敷(城ヶ尾峠)より城ヶ尾通り鞍骨までは、通行人が頻繁であって、この道は道志村がつくり、橋もつくってきたこと」と書いてあります。この道は、道志から中川に抜ける「サカセ古道」のことではないかと思いました。そうだとすると峠は二本杉峠です。
また、道志村は、地蔵平に入会しており、地蔵平が内側に入る峠は二本杉峠しかありません。二本杉峠は、今の場所ではなく、たぶん、屏風岩山に寄った、地蔵平に下る位置かもしれません。手前に鞍のこぶようなピークがあります。
(2)箒沢二タ俣杉について、(現中川の箒杉)
平野村は境界が、三国峠、水ノ木大棚、山神峠の山神社、鞍骨峠、箒沢・二タ俣杉、犬越路を見通した線と主張しています。
目印となるものは、山の中で動かないものだとすると、箒沢・二タ俣杉は、大きな箒沢の箒杉だと想像しました。
箒沢部落は、山梨方面から来たひとが移住した部落と何かの本で読みました。そうであれば道志村に編入されても問題はないかもしれません。
足柄の文化12号に、西丹沢の領有権を争った上記表題の論文が出ています。西丹沢の歴史の中で第1番に挙げられる出来事ではないかと思われます。内容はそのまま私なりにまとめてみました。
その1 | 相甲国境紛争と公判の概要 |
その2 | 時代背景 |
その3 | 紛争前の国境 |
その4 | 紛争の発端 |
その5 | 訴状の提出 |
その6 | 訴状の概要 |
その7 | 当時の裁判の方法 |
その8 | 公判開始前 |
その9 | 公判の開始 |
その10 | 江戸での公判終了 |
その11 | 実地検証と裁判費用 |
その12 | 判決 |
その13 | まとめ |
その1 相甲国境紛争と公判の概要
相甲国境紛争は、天保12年(1841年)に甲州平野村名主勝之進が訴訟人となり、「国境押領出入」として、当時の中央政府(幕府)に告訴した事件です。そして、弘化4年(1847年)幕府の判決まで、約7年の歳月を経て終結した大裁判であったというだけでなく、現在の神奈川県・静岡県・山梨県の県境が始めて確定した歴史的な裁判でもありました。
その2 時代背景
天保2年に起った天保飢饉は、同年7年には大飢饉となり全国に百姓一揆や打ちこわしが多発した時代でありました。 天保の凶作は、甲州平野村ばかりでなく、丹沢山中の農民(世附村・中川村・玄倉村等)の生きる道は山稼ぎでありました。
*山稼ぎ……炭焼き・漆・椎茸・木地類・材木等・特に炭焼きは小田原から江戸に船積されていた。
その3 紛争前の国境
平安初期にも相甲国境紛争があり、日本後記に国境が記載されているらしいが、その国境線は余りにも粗雑な境であり、不明確なものでありました。
紛争が発生する前には、世附川上流大棚周辺に平野村側の立入りを、相州側は認めていた事実も存在していたようであった。
その4 紛争の発端
天保12年平野村の百姓は大挙して世附川上流土沢周辺にあった、相州世附村・神縄村・谷ヶ村(谷峨村)・矢倉沢村、駿州中島村・上野村の18名の炭窯・居小屋・納屋・等を打ち潰し暴行した事件が発生した。
小田原藩は、この事件を機会に丹沢山を御林として確保する挙に出た如くに、世附村を支援して強硬な態度に出た。小田原藩の山奉行は世附村から事件の報告を聞き、暴行事件の検分をすると同時に事件の始末書を提出させ問題化し、平野村支配谷村代官に抗議の書状を送った。
両者交渉経過は定かではないが、両者交渉中から勝之進は、訴訟の準備を進めていたようである。 天領谷村代官は、親藩小田原との直接交渉をさけて中央政府(幕府)の公栽の道を選んだと思われる。
その5 訴状の提出
天保12年10月甲州平野村勝之進は、平野村小前ならびに村役人総代として訴訟人となり、相州と駿州の6ヶ村18名を相手に「国境押領」の訴状を谷村代官所を通じて政府に提出したのである。勝之進は余程の確信をもって谷村代官と打ちあわせの上、訴訟に踏切ったものと思われる。
その6 訴状の概要
前段に、平野村は山稼ぎが主で林産物を他国に売って生計を立てている。天保の飢饉によって百姓は潰れ、離散し家の軒数が減少したと現状を説明した上で、相州側の国境押領については、諸証拠を調べて厳重に吟味してくださいと述べて、甲州と相州の境は、綱峠(三国峠)から山神峠・箒沢・二タ俣杉(?)・犬越峠を見通した線が境であると主張。
証拠としては、
1、大洞の影山東丸と言う所の、巣鷹立林は、勝之進の先代がこの山守を命じられ年貢も納めている。また、そのことは北條氏から山稼
ぎの朱印も受けている等。
2、 山神峠の山神社は、往古より世附村と相談して、持ち合って勧請している。
3、世附村から平野村に、国境を侵したことについて、侘び証文も提出されている。
綱峠(三国峠)から犬越峠までの広大な地域を世附村他6ヶ村18名が押領したと、訴状を江戸奉行所に提出し受理された。
その7 当時の裁判の方法
天保度の公判は、事件関係者から陳情ならびに証拠物件等を提出させ、これを審査し、次に奉行所白州(法廷)に於いて原告、被告、証人の陳述を行わせ、その後論所の実地検証(現地調査)を行い、勘定奉行、江戸町奉行、老中等の合議の上、判決を出すといった順序を既に取っており、近代化への形式を備えていた。
その8 公判開始前
江戸奉行所は、公判を開始する前に、原告、被告、そして証人となるべき国境関係の村役人に令状を出し、裁判に必要な書類・証拠物件などの提出を指示、裁判の開始は、3年後の天保15年4月とし関係者は、江戸奉行所に出頭することを命じた。
その9 公判の開始
天保15年4月8日関係者は江戸に到着した。指名の本人が病気のため出席できない場合は代理人での出頭の許可を受けた。
指名の本人に病人が少なくないのを見ると、恐らく才気ある屈強な農民が代理人になったとも考えられる。
原告側は、出入宿(裁判宿舎)神田仲町の坂野屋、被告側は芝浜松町上総屋、証人側は馬喰町植木屋にそれぞれ分宿した。
出入宿は付添或いは代書人の業務を担当した。
(1)4月9日 白州に於いて人定尋問
奉 行 | 1名 | 脇 役 | 2名 | ||
原 告 | 平野村 | 勝 之進 | |||
被 告 | 相州側 | 世 附 村 | 組頭5人 | 百姓代1名 | 百姓2名 |
(18名) | 神 縄 村 | 名主1名 | 組頭1名 | ||
谷ヶ村(谷峨) | 名主1名 | 百姓1名 | |||
矢倉沢村 | 百姓1名 | 名主1名 | |||
駿州側 | 中島村 | 名主1名 | 百姓1名 | ||
上野村 | 名主1名 | 百姓1名 | |||
立会証人 | 相州側 | 中川村 | |||
駿州側 | 大御神村 | 須走村 | 柳島村 | 湯船村 | |
甲州側 | 道志村 | 山中村 |
立会証人 各村役人の内一両名づつ、名主・組頭
(2) 4月27日から9月18日までの公判
白州における取調べは、原告平野村提出絵図面、世附村提出絵図面、官庫の絵図面を使用してそれぞれ関係者に陳述させた。
4月27日より開始された公判は、3日から4日おき程度に続行された。奉行の都合により予定日が延期されたり、村役人に病人が出て交換したり、お盆のため一時帰村したりしたが、4月から9月まで克明に記録が残されている。
(3) 特に紛争の中心であった、三国峠〜大棚〜土沢周辺の領有・入会については、世附村と平野村の論争は烈しく、平野村勝之進の必死の陳述、抗弁は「法廷侮辱罪」に問われ、「手鎖を付けられ白州留め」となった程であった。
道志村は、平野村に同調し、中川村との間で大室山、城ヶ尾峠、地蔵平周辺の領有・入会について烈しい論争に発展した。
(4) 世附村側の主張、
@甲州と相州の村境は、三国峠〜切通峠〜菰釣山まで、水分(尾根)を境に、甲相国境と力説し、この境界から内側は残らず、領主御林(川村御関所御要害山)であること、最寄りの村は領主役場の許可を得て、炭焼等農閑期の稼ぎをしている。
文化度に平野村に入れた詫び証文は、世附村の百姓が誤って芳政峠(切通峠)から平野村に立入った事件があって、穏便に収めるために内密に一札を入れたのみである。
A安永度に、平野村から世附村に差し入れた侘び証文の通り、領主御林は明白であり、平野村の入会権など一切ない。
B山神峠の山神社の石祠には、小田原藩山奉行の名前があり、これは宝暦度に刻まれたものである。
(平野村側は、世附村が証拠つくりに最近刻んだものであると反論している)
(5)中川村の主張、
中川村と道志村の境は、菰釣山より北東へ城ヶ尾峠よりざれ峠?・大室山絶頂半まで峰筋(尾根)をもって道志村と境を接し、そこから犬越路までは、青根村と接し、山表(南側)が中川村分である。
道志村の主張する入会地は全く存在しない、去る、寅年、地蔵平より城ヶ尾峰まで長さ約4Km、巾1.2mに刈分したので、再三抗議したが、今回の平野村と同様に国境を奪う底意がある。
その10 江戸での裁判終了
広大な丹沢の国境を、各村の陳述や村絵図だけで決定するには相当に無理があり、又事実平野村や道志村は影山に自由に入山し、世附村もこれを認めていた事実もあった。幕府は、各村に莫大な出費を要する実地検証を省略し判決する意向を打ち出したが、平野村勝之進は、現地を調査すれば、国境は明白であると主張した。
奉行は、各村に莫大な費用を要する、実地検証を受け入れるがどうか最終的に問いただし、受諾の始末書を提出させ、4月から9月にかけての公判は一応終了し、9月23日江戸より帰村の「二夜泊まりの御添翰」をもらって長い江戸滞在に別れをつげた。
*御添翰・・・添書き?
その11 実地検証と費用
実地検証は、江戸の公判から2年後の弘化3年3月27日から6月26日までの115日の長期にわたり、一行上下37人の出役によって行われ、その間の出役の宿泊延べ員数4300人にものぼり、その他道造り、杭打ち荷物運び等、関係村々から動員された人足数は、
20,000人と推定され、この時期の係争事件としては、空前の実地検証であった。
*平野村の実地検証の費用
平野村一村に限って言えば、幕府からの交付割当金の16両2分を別として、代官手代衆への献納金8両等を含めて費用総額128両3分となっている。その総額には徴用人足賃や江戸往復費用・滞在費・その他諸雑費・勝之進の自己負担金が含まれておらず、それらを含めると、平野村の訴訟費用総額は、128両3分の倍を超えた費用を要されたものと想定される。
*世附村の実地検証の費用
小田原藩領の各村の出費も莫大な額であったと思われる。土沢で炭焼きをしていた谷ヶ村兵八が裁判費用として小田原藩より無利息50年賦償還で17両2分を拝借した証文があるところを見ると、小田原藩が各村に相当な出費の援助をしたものと思われる。
いずれにしても小田原藩が御林確保のために、領内の村々に出費させるということはどういうことであろうか?
世附村私設の御林であろうとも考えられる。
江戸時代における貨幣の価値がいくらに当たるかという問題は、大変難しい問題です。なぜならば、当時と現在では世の中の仕組みや人々のくらし向きが全く異なっていて、現在と同じ名称の商品やサービスが江戸時代に存在していたとしても、その内容や人々がそれを必要とする度合いなどに違いがみられるからです。
ただ、一応の試算として江戸時代中期の1両(元文小判)を、米価、賃金(大工の手間賃)、そば代金をもとに当時と現在の価格を比較してみると、米価では1両=約4万円、賃金で1両=30〜40万円、そば代金では1両=12〜13万円ということになります。
また、米価から計算した金一両の価値は、江戸時代の各時期において差がみられ、おおよそ初期で10万円、中〜後期で3〜5万円、幕末頃には3〜4千円になります。
*実地検証の場所
実地検証に要した115日間で、争いの中心である世附村・平野村はもちろんのこと、場所出入に於いて加わる甲州は道志・山中・長池、駿州は須走、相州は中川・青根・青野原・牧野の八ヶ村も一同地所検分した。
道造り、杭打ち荷物運び等村を挙げて大騒動であったと言い伝えられている。
その12 判決
6月26日の実地検証終了の1年後、弘化4年7月2日、老中、寺社奉行、江戸町奉行、勘定奉行が合議を重ねた結果、連署加判の裁許状(判決文)と相甲駿国境が書かれた絵図を関係の村々に下付した。
その会議に加わり連署加判した江戸町奉行は、「遠山の金さん」こと、遠山左衛門尉景元であり、弘化2年から嘉永5年まで南町奉行として活躍しておりました。
以上の如く7年間に及ぶ天保山論は結審により終局した。
判決文の内容
判決は、原告平野村ならびに道志村に対して厳しい結果となった。
@平野村側の提出した北條氏からの朱印のある書簡等は、物的証拠とはならない。
A山神社の石祠の小田原藩山奉行の名前は信用すべきである。
B平野村より提出された絵図は、私的なものである。
C世附村から平野村に提出された侘証文も確証にはならない。
D平野村、山中村、長池村の申し立ては、それぞれ心つもりの国境で証拠にならない。
などなど厳しく論断している。
平野村側の主張である、三国峠、山神峠、箒沢、二タ俣杉(?)、犬越峠の線は却下され、現在の県界が確定した。
その13 まとめ
@広大な丹沢山系の所属をめぐる山論は、それぞれの村々の存亡に係わる重大な事件であった。
A近世商品経済の発達の中で、天保の飢餓による農業生産物の荒廃は、農民の生きる道を丹沢山系の森林に託した闘いでもあった。
Bそれは烈しく莫大な出費の永い闘いであった。
甲州側の用益慣行は否定し得ない事実であったが、勝之進はこの広大な丹沢山系を一挙に甲州領として、国境押領の告訴に持ち込み、最終的には用益慣行入会権をも保持し得ない結果になったことは、勝之進に十分な確信があったとしても、やや大上段に構えた問題の提起であったとも思われる。
「近世の林野紛争と公裁」の著者である所三男氏は、この判決は甲州の天領支配の代官以下の事務官たちが、甲州側を支援する積極的な情熱を欠き、御座なりの行政官僚であるに対して、小田原藩は優勢な領主権力をうしろ盾にしたことが、甲州側の敗北の一因であると述べている。
所三男氏の意見を受け、最終的に著者である、石田昇氏は、このように述べている。
この判決が政治的判決であるとするならば、近世の中央集権的封建制度の下で、経済的には藩経済圏から国民経済圏へと転換しつつある近世後期において、幕府は交通不便な平野・道志地方より、東海道・小田原、江戸への市場に近接している丹沢山系の親藩である小田原藩の御林とすることが、幕府にとって有利であったと見るべきではないだろうか。
私の感想
紛争から150年近くが経過した今も、世附川上流域には人が住んでいません。
この空白地帯に人が住まないことにより、領有権が曖昧になることはごく当たり前のことと思われます。
この西丹沢を、今後も100〜200年と自然の多い人が住めない区域として、残してほしいものです。
当時の原文をそのまま現代かな使いに直した文章もあり、理解できず説明不足が沢山ありますので、お許しください。
興味のある方は、是非ご一読ください。(茅ケ崎図書館所蔵)
以上
2 「平野村と甲州・相州・駿州国境紛争」・山中湖村史から
「峠のむこうへ」さんから山中湖村史に「相甲国境紛争」が書かれているとの情報を頂き調べてみました。
国境紛争の訴訟人である、平野村名主「勝之進」の地元である山中湖村の村史には、国境紛争について、私が見た中では一番詳しく(ページ数は150ページ)、また、わかり易く書かれています。
山北町の故石田昇さん(旧世附部落)の書いた国境紛争とは違い、争いの当事者平野村(山中湖村に合併)の立場で書かれている国境紛争は、その顛末について違った見方をしています。
その中から、最後の「幕府評定所の裁決(判決)」を、山中湖村史 第4巻 第八部 第二章 「平野村と甲州・相州・駿州国境紛争」を引用しました。
評定所に提出された文書は、世附村、中川村、道志村、平野村、各村々が、境界とその根拠を示し提出しております。内容は大変興味深いものです。引用したい部分が沢山ありますが、下記の判決文のみにしました。
第五節 弘化四年の幕府評定所の裁決
平野村と世附村ほか村々との訴訟は、弘化四年七月二日に裁決(判決)された。天保一二年に平野村が出訴してから六年の才月を経たわけである。
裁決に参加したのは、老中が四名、勘定奉行が四名、江戸町奉行が二名、寺社奉行が四名である。
つぎに、裁決(裁許状)を山中湖村史第4巻第八部第二章平野村と甲州・相州・駿州国境紛争引用します。
・・・・・原文省略・・・・・・・
裁許状は、まず、平野村の村境(国境)についての主張を記す。
すなわち、字綱峠(三国山)と称する嶽より峯通り三国峠までは南方駿州境で、同所より山神峠(山神社)へ見通し、東方は相州境のところであるという。
これにたいして世附村の主張は、
三国峠(三国山)より菰釣山まですべて峯通りで、論所は一円世附村地内で惣名新山といい、川村御関所御要害山であるという。
つぎに、評定所の判断である。
すなわち、この両者のいい分について見分のため、御勘定評定所留役・豊田栄次郎・小俣稲太郎、支配勘定・田中庄次郎を派遣して、今回の訴訟に参加した。
甲州の道志・山中・長池、駿河の須走、相州の中川・青根原・牧野の八か村についても地所を見分させて究明させたところ、平野村がいう論所は惣名「影山」と称し、字東丸は巣鷹山で享保年間に巣鷹を納め、この請取書があるというが、このほかに同じような「立林」がある以上は平野村のいい分は判断がつかない。
また、平野村には北條ならびに武田家の朱印、さらに稲葉美濃守家来の書簡があるも、これらには地所についての正確な記載がない。
山神社についても、古く、平野村が勧請したというが、この石祠には、新山小奉行「宮沢五右衛門外四名」の名前が彫りつけてあり、そのほか、棟札ならびに鰐口等まで相手方が建立した趣旨が記されていて、これらは、紛争が生じたためにただちに行なったものとは思えない。
平野村が宝永年間に秋元m馬守へ差出したという村絵図面に、三国峠より山神峠、それより箒沢二タ俣杉(箒杉?)・狗越峠(犬越峠)へ見通し国境とするというも、この絵図は平野村が書いているので信用できない。
係争地の大棚近辺へ平野村が立入っていたのは明らかであるが、文化年間に相手方より取っている書面にも、今後、平野村が差支えるような場所には置かせないなどということが記されており、この土地が平野村内であるならば、このような書付をとるのはおかしい。
世附村では、係争地を「惣名新山」といい、三国峠より峯通りが国境で、元文年間に係争地内の字的場沢で金銀を掘ったという書付、ならびに寛延年間に平野村の半三郎が変死した際、または、安永年間に平野村の者達が新山で材木を伐取るときの書付をもって、係争地内の字大棚・吉政峠(切通し峠)であるというが、右の書付には新山とあるだけで字等については確認することができない。
係争地のほかに多くの林山があるために、どの場所かということを定めることはできない。
道志村については、山神峠より鞍骨峠(二本杉峠)・箒沢二夕俣杉(箒杉)ついても、大洞山絶頂より峯通り水分かれ境である、ということで、平野村ほか二か村が巣鷹山立林と主張する林地へ引返し、籠坂峠より天神・七ツ尾という山へ引付け、これを国境というも、御代官所が建てた傍示杭を境内に囲込むことになりおかしい。
右の場所が須走村の地内であるのならば、傍示杭を建てるときに、これを認めるようなことはしないであろう。
官庫の御絵図面に、甲州と駿州との国境は、籠坂往還上より駿州の方へ少し下ったところが国境であるとあり、右の往還の西方は無間谷までの間、東の方ほ綱峠(三国山)まで、山国境知れずとあり。
かつ、平野村・世附村らびに道志村・中川村・青根村・青野原村・牧野村七か村の係争地のうち、三国峠より東方は相州世附村・駿州柳島村の間、荷下し場まで、西北の方は相州青根村・甲州道志村の間、神野川・道志川の落合まで、どれも山国境知れずとある。
いずれも国境について争うのは、自分の狗越路、それより神野川沢筋道り、道志川落合へ引付け国境というのは申伝えであって、境川内には、青根村・三左衛門の小屋、または、同村持の御材・畑地等もあり、そのうえ、天保年間に道志村の組々で山境についての紛争の際、係争地の検証のとき、調印して差出す分間絵図面にほ峯通りが地境になっており、今回の主張には合致していない。
中川村・青根村・青野原村・牧野村の四か村については、係争地内の畑地または御林等において使用・収益に従っていたことは確かであるが、中川村は菰釣山よりすべて峯通り大室山まで。
青根村ほか二か村は、同所より尾根通り、道志川・神野川落合へ引付け、国境についてはたしかな証拠とするべきものはなく、道志村宮内は、大室権現ほか一二社について前々より守護してきた。
大室山には天文年中に建立した碑、または、親若狭・吉田家より与えられた許可状に、大室権現・八幡両社の神主・佐藤若狭とあるが、係争地以外に支配する権現・八幡両社にもこれがある以上は、主張通り進退していたということも確定ができない。
川村峯般若院・最照が、右の大室権現・八幡山神を前々から支配して年々祭式等も執行していたということについて、口頭でいうだけでこれについての証拠はない。
平野村・長池村・山中村の三か村について、字大洞山の係争地は、駿州・大御神村の境より籠坂往還の傍示杭へ見通し、同所より山中村境は、籠坂峠の峯へ引上げ、それより天神峠の国境である、ということについては、そう思っているだけで証拠はない。須走村も同じでこれらは採用することはできない。
右のような実地調査ならび書類調査、双方の申立てを総合して、幕府評定所でほ、一座の者がつぎのように国境を決定した。
すなわち、今後、平野村にて綱峠、世附村にて三国峠という嶽を三国峠とする。
右嶽より峯筋、訴訟方・平野村にて大丸尾、相手方・世附村ほかにて菰釣山とい嶽へ取付け、峯通り大室絶頂にいたり、それより尾根通り道志川・神野川落合へ引付け、東南ほ相模・西北は甲斐両国境とする。
係争地の山神社ほ世附村が支配し、大室権現ほか二社は道志村・宮内が支配する。
三社箱宮は同村の地内へ引取り、平野村と須走村の境は、大御神村境より籠坂往還の傍示杭へ見通し、それより山中村・須走村の両村の境は、右の傍示杭より山中村にて籠坂峠、須走村にて矢弭山という峯へ引上り、同所より、山中村にて天神峠、須走村にて七ツ尾という峯へ引付け、北は甲斐、南ほ駿河両国の境とする。
かつまた、今後、籠坂往還の傍示杭を建替えるときには須走村を立合わすこと。
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以上によって明らかなように、村境・国境については、平野村の主張はすべて却下され、平野村の敗訴で終りた。
そうして、平野村にとっては・・・あるいは、世附村にとっても・・・新しい村境と国境が生れたことになる。
この裁決が、はたして正しかったか否か、ということについては、今日でもなお判定のかぎりでほない。
しかし、この裁決によって、今日、村境も県境も決まったといえる。
もはや、この境について動かすことは、およそ不可能なことであろう。境というものについてみるかぎり、天保一三年から弘化四年までにいたった紛争の裁決は、きわめて重要なものであったことを意味している。
幕府評定所の裁許状についてみるかぎり、実地検証についてはともかく、文書資料上においては、平野村・世附村とも適確にきめ手となるような村支配を示すものはなにもだされていないことがわかる。
もし、そのような文書資料の存在をみるのであるならば、訴訟が開始される以前において、両村からその文書資料の提示があり、これをめぐって応酬がみられるはずである。
ほとんど、適確な文章資料を欠いたまま、幕府評定所一座によって審理をされたわけである。
いいかえるならば、適確な文書資料を欠いていたからこそ、紛争が生じたといえる。
平野村が、古くから影山一帯に入って山稼を行なっていたことは事実である。もともと、平野村は山中湖をめぐる三村のうちでほ富士山麓に離れており、かつ、他の二村(山中村・長池村)が、駿州と甲州をつなぐ駄賃稼にでていたのにたいして、かかわりをもっていない。
影山での山稼ぎと、これで得た木製品を相州へ運ぶ独自のルートをもっていたためであろう。
それでは、いったい、平野村が村境・国境を主張通り線引きをした訴訟を起したことは無暴であったのであろうか。
いいかえるならば、名主・勝之進が根拠のない国境を主張して強引に小田原藩の国境を押領しょうとしたのであろうか。
この点については否定的な要素が強いが、明確なかたちで断定することはできない。
たしかに、平野村の訴訟は、勝之進という名主がいて始められたといえる。
それだけに、勝之進の性格は、きわめて個性の強いものと推測できる。
幕府評定所での勝之進の姿は、強引のようにみえるが、訴訟を起した当事者としてほ必死の気持があったのであろう。
訴訟は、係奉行の石河土佐守の審理になって、ほとんど、そのはじめから小田原藩領村々の方向で進められている。
このときから、平野村の敗訴はきまったといってよい。
それだけになおさら勝之進の孤軍奮闘ぶりはすさまじいものになった。
石河土佐守が係奉行であったことが、平野村にとって不利に作用したことは明らかであるが、小田原藩の幕閣における力も否定することはできない。
平野村が天領に属するといっても、このことがただちに将軍家と藩との対決というかたちであらわれるものではない。
天領(御料所)を統轄するのが勘定奉行であるから、平野村は代官支配を経て勘定奉行に属することになる。
そのもとからの裁判であるが、天領にかかわりをもつ裁判について、必ずしも天領に有利に動くというわけのものではない。
勘定奉行は旗本のなかから出るが、老中のもとに置かれる。
いわば、譜代大名が訴訟指揮をとるばかりでなく、人事をも決定するわけであるから、老中職を勤めた小田原藩のような譜代大名との領地紛争となると、はたして公正に裁判を行なえることができるかどうかも問題であろう。
すでに述べたように、平野村の訴訟は、口頭弁論(対決)のはじめから平野村に不利なかたちではじまっている。
専門審査官(留役)としての評定所の役人も、はじめから平野村に不利な内容で審問して審理を進めているほか、道志村についても同じような態度でのぞんでいる。
訴訟全体の流れからみると、この訴訟の第一段階において、平野村・道志村の敗訴は決まっていたといってよい。
(1)
裁許状本紙ほ、通常、原告被告の両者にたいして一通づつ渡されるが、平野村・世附村ともにその実物の存在をみない。
したがって、裁許絵図にどのような線引きがなされたのか、これを明らかにすることはできない。
少なくとも、勝訴した世附村に本紙は残存するはずであり、また、写もあるべきほずであるが、現在までのところ、その行方はわかっていない。
もっとも、われわれが調査に入ったときは、世附村はダムによって全村が立退くところであり、すでにその大部分は村外へ出ていた。
人々が引越しをするにあたり、村が水没して、もはや実生活上においても関係がなくなった村となったいま、その村と他村との古い時代の境界紛争の書類は不必要な存在となったためであろうか。
この間の事情についても明らかではない。
世附村の調査に際しては郷土史家である世附村の石田昇氏には多大の御配慮をえたが、関係する若干の史料をえたのみである。
山中湖村史から「相甲国境紛争」の引用終わり
甲州平野村と村境(国境)を争った、相州世附村・中川村の所在地は山北町です。
山北町史には「相・甲・駿三国国境論争」を下記のように書いています。
山北町史 通史編 第6章 第4節から引用いたします。
(1)世附山入会
中川村.玄倉村・世附村は奥山家(おくやまが)三ヵ村と呼ばれ、新山(にいやま)三ヵ村とも称した。
山北町域の村むらのうち、中川村・世附村が甲斐国と境を接し、谷ケ(やが)村・川西村・世附村が駿河国と境を接していた。
山北町域の村々は川西村・山市場村など九ヵ村が世附山に入会(いりあい)を行ない、萱(かや)・薪・小竹などを採っていた。
川西村や湯触(ゆぶれ)村では竹を切って笊を作り、また薪を取って、それらを六里余り(約24km)離れた小田原宿まで運んで売っていた。
ほかの村むらも萱・薪等を入会山で取り小田原に持ち出して現金に換えていた。
神縄村では、貞亨三年(1686年)の明細帳によれば材料の竹・木・藤を奥山家で取り、箕(み)・笠を作り川村山北に運んで売っていた(「近世」史科16)。
天保五年(1834年)の明細帳では蓑(みの)や炭を作って川村山北に出し仲買に卸していたことがわかる(「近世」史料17)。
奥山家の山やまは、山容が大きく山が相互に入り組んでいるために村ごとの入会範囲を決めずに自由に山に入っていた。
世附山は、現在の静岡県小山町域の村むらのうち小山村・中島村・柳島村・湯船村(ゆぶな)・藤曲村(ふじまがり)・菅沼村・所領村(しょりょう)・竹之下村(たけのした)・吉久保村・阿多野新田(あだのしんでん)・上野村(うえの)・中日向村(なかひなた)・大胡田村(おおごだ)村・下古城村(しもふるしろ)村などが入会山として利用していた。
上野村の貞亨三年(1686年)の明細帳には世附山で炭を焼き、焼き上げた炭は、殿様用として金一分につき炭七俵、小田原藩士には金一分につき六俵、商売用の炭は金一分で六俵で売っていた。
また、その他の村むらは、世附山で薪・農道具・家道具・馬草・苅敷(かりしき)などの採取を行なっていた。
元禄十六年(1703年)、世附村が菅沼村など10ヵ村の入会を一方的に拒否したため争いとなり、宝永二年(1705年)、10ヵ村が訴えを起こしたが、詳しい経緯・結果は不明である。
安永年間(1772〜1780年)、この世附山の「新山」に、小田原藩は「御林」を置いた。
甲州側の平野村(山梨県山中湖村)も世附山での山稼ぎを行なっており、この御林の設置は、平野村にも影響を与えるようになった。
小田原藩は、世附村から三、四里(約12〜16km)も山奥に入った尾根に近い一帯を「新山御林(にいやまおはやし)」に指定したが、その場所は平野村からは距離的にも近く、入会利用が容易な場所である。
安永九年(1780年)十月、小田原藩の奉行所役人が「新山御林」の見分に世附村を訪れているときに、甲州平野村の村民が新山に深く入り、藩指定の「御留木(おとめぎ)」を伐採し、奉行所役人により道具を取り上げられるという事件が起きた。
御林の場所は相州側では「新山」、甲州側では「影山」と呼んでいた。
小田原藩はこの御林の見分に奉行所役人を出向かせ、平野村の入会地に立ち入らせた。
そこでは平野村が藩の御留木を伐採していたため、その道具を差し押さえ、さらには平野村の馬道の開さくを問題にした。
このときは、「平野村が御林に立ち入らないこと、馬道に堀切をして通行止めにすること、違反者が出た場合は処置を受けてもよい」などの申し入れをして決着した(「近世」史料343)。
(2)世附村と平野村の衝突
文化十年(1813年)三月、小田原藩の役人が新山御林の見分を行なった。
その際に、世附村ではこの見分のことを事前に平野村に知らせなかったため、九月になり世附村側が平野村に対し謝罪を行なった。
この一件から新山の帰属が世附村か平野村かが明確になっていないことがわかる。
つまり世附村の山であれば、小田原藩領になるから藩役人の見分を平野村に断る必要もなくなるのである(「近世」史料370)。
この年、「新山」続きの「大棚上」で平野村と世附村が材木の切り出しで紛争を起こした。
世附村側は駿河国菅沼村の名主(なぬし)重右衛門と相州曽我別所(そがべっしょ)村の太兵衛に仲裁を依頼することになった。
ところが、内済の話し合いが進んでいる最中に、世附村側は平野村への連絡をせずに「大棚上」に小屋を建て、木材の伐りだし作業を始め、平野村側の態度を硬化させ、世附村側が詫び状を入れる事態になった。
このことは「新山」一帯で平野村の山嫁ぎがかなり幅広く行なわれており、世附村は「大棚上」での伐木について、平野村の権益を認めて伐木を中止し、平野村に詫びた。
つまり「大棚上」は「御林」内ではなく、「御林」外に位置していることになり、入会権も平野村が単独で持っていたと考えられる。
天保十年(1839年)になると、世附村はそれまでほとんど利用していなかった山林を積極的に利用しはじめた。
御林内の本谷筋土沢での、神縄村佐右衛門、谷ケ村兵八、矢倉沢(やぐらさわ)村(南足柄市)清蔵、駿州中日向村易右衛門、同柳島村長三郎らに山林を払い下げ、その者たちに炭焼窯を作らせ、炭焼きを始めさせたのである。
このことは、平野村が林野を利用している地域で世附村側が利用の拡大を図ることになり、以前からくすぶっていた平野村との対立を煽ることになった。
平野村はこれに反発し、天保十二年(1841年)九月十三日、実力行使に訴え、炭焼窯などのの破壊行為を行なった。
この日大勢の平野村の者が後に相・甲・駿三国境国境論争の論所となる世附川支流の土沢周辺で炭焼きなどを行なっていた谷ケ村兵八や矢倉沢村清蔵、中日向村易右衛門らの抱え炭焼きを襲って縛り上げ、炭焼窯や小屋・納屋などをこわし、さらに炭・縄・俵などをすべて切り散らし谷底へ投げ込むという事件が起こった。
世附村は平野村の破壊行為を小田原藩に注進した。
小田原藩では藩の山方役所の役人を差し向け、世附村の者から平野村の行為の報告を受けた。次いでそれは世附村の者の連名で、小田原蕃山方役所あてに提出された。
この事件の原因について、報告のなかで世附村は、村境をあげている。
世附村は南は明神峠水翻、東は中川村、西北は三国峠から吉政峠水翻を境としていて、今回の事件は世附村内で起こったとしている。
一方の平野村は、境を三国峠から明神峠を見通し、そこから中川村二俣杉を見通したところが平野村分であるとしている。
一連の世附村側の動きをみていくと、平野村との村境を確定することで、平野村の新山周辺への入会を排除しようという意図が見え隠れする。
この事件の被害を受けた当事者のなかには世附村の名前がない。しかし現場の見分を願い、報告書の提出は世附村の名前でなされている。
その後、小田原藩山方奉行の辻平内・簗瀬左織両名は平野村の支配代官所谷村役所の手代(てだい)衆あてに九月二十八日付で、平野村の村民の暴力、支配地域について明らかにするよう申し入れた。
これに対する谷村代官所の対応は文書として残っていないので詳しいことはわからないが、十一月一日、再度小田原藩の山方奉行の辻平内・簗瀬左織の名で、谷村代官所大塚大作あてに送られた抗議文で谷村役所の回答がわかる。
これによるとこの紛争について平野村より谷村役所に対して訴えが出されており、世附村の者たちが平野村分に入り込んで炭焼きを行なっていたとなっている。
さらに平野村が、幕府評定所へ訴えを起すこと、谷村役所がそれを認めたこともわかる。
これに対し小田原藩側は、平野村が領内に入り込んだと主張し、平野村側の言い分を認めれば紛争地が小田原藩領ではないことになるので重大な問題になることを指摘している。
この一連の出来事のなかで世附村を中心とした村むらは小田原藩と緊密な連絡を取り、藩でもこれに応えて、世附村が平野村側の不当な行為を取り押さえると、すぐに検使を派遣した。こうして小田原藩領の関係村むらはまとまって甲州側に対処した。
甲州側の支配代官は、平野村名主勝之進の主張を全面的に受け入れるだけであったため、勝之進は事件当初から弘化四年(1847年)の裁許まで、ほぼ一人でこの争論をたたかうことになった。
平野村側が幕府に訴えを起こした理由としては、
@論所一帯の村境(国境)が、明確になっていないこと。
Aその地域で、平野村の山稼ぎ場(入会地)に相模・駿河側の村むらが入り平野村側の権利を侵していたという事実。
Bそして万一そのまま相模、駿河側の入会の権利が拡大していった場合、平野村の山稼場(入会地)が縮小していくことになるという危機感があったこと、などが考えられる(『近世』史料412)。
(3)幕府評定所へ
平野村名主勝之進は、この争いの決着を幕府に委ねた。
訴訟相手は、世附村組頭8名、神縄村名主佐右衛門、谷ケ村兵八、矢倉沢村清蔵、駿州中日向村易右衛門、同菅沼村名主重右衛門、同上野村幾右衛門、同中日向村善左衛門、相州曽我別所村(小田原市)太兵衛のいずれも小田原藩の領民であった。
勝之進は訴訟の理由書を谷村代官所に提出し、添え書きを受けて、天保十二年十月、幕府評定所に提出した。
訴状を受理した幕府評定所は十一月晦日付で、勝之進に対し年が明けた二月十三日に評定所へ出頭し、「対決」するように命じた。
この後、裁判がどのように進んだかは「小山町史」に依ってみていく。
天保十三年(1842年)二月一日、幕府は佐橋長門守佳富らの連署をもって評定所での対決の命令書を双方に出し翌年二月から召し出し、吟味取り調べが開始された。
天保十五年四月には、評定所白洲での正式な裁判がはじまった。
甲州平野付からは勝之進ただ一人が召し出され、相手方の小田原側は、世附村の組頭を始め、前述の村役人等が召し出された。
また。小田原藩側の立会証人として、相州中川村、駿州須走村(静岡県小山町)、湯船村、柳島村、大御神(おおみか)村(静岡県小山町)が、原告の甲州側からは甲州郡内道志村、山中村の代表が呼び出された。
原告は神田仲町坂野屋に、被告は芝浜松町上総屋に、立会人は馬喰町植木屋に止宿した。
四月八日から奉行所での裁判がはじまるが、本審理に入ったのは二十七日で二十九日までが第一回であった。
裁判の担当奉行は石河土佐守政平、脇役は増田作右衛門.赤木唯五郎の二人であった。
以後隔日か三日おきくらいに招集され、審議は続いた。
七月七日から八月十日までに召喚者は帰村させられ、ふたたび江戸に召し出されたのは、八月十二日であった。
九月六日までは定宿で待機し、九月七日から九月十九日まで吟味取り調べが行なわれた。
この間、五月二十四日に勝之進は手鎖を言い渡される。
理由は奉行の審議に対して強硬な態度を曲げなかったためという。七月七日に一度は許されるが、完全に手鎖がとかれたのは、奉行が跡部能登守と交代した九月十九日以降のことだった。
その後弘化三年(1846年)三月二十七日から六月二十六日までの間、勝之進の強い要請で論地の実地見分が行なわれた。
見分は一一五日にも及び、出役延べ人数は四三〇〇人にものぼった。
また実地見分に動員された人足は延べ二万人にも及び、周辺の関係諸村の負担は計り知れないものだった。
(4)幕府の裁許
弘化四年七月、裁許が下された。
三奉行と老中合議により、原告の甲州平野村の主張や用益慣行は全面的に否認され、被告の相州世附村側は実績のない新山一帯の用益権を認められる裁許となった。
裁許に連署したのは、幕府勘定奉行牧野大和守成綱・久須美佐渡守祐明・松平河内守近直・石河土佐守政平、町奉行鍋島内匠頭直孝・遠山左衛門尉景元、寺社奉行本多中務大輔忠民・内藤紀伊守信親・脇坂淡路守安宅・久世出雲守広周、老中戸田山城守忠温・青山下野守忠良・牧野備前守忠雅・阿部伊勢守正弘の一四名である。
(5)西山家村むらの対応
天保十二年の平野村による幕府評定所への出訴から裁決が出された弘化四年までの六年間にわたるの江戸での裁判のため、関係村むらは多大の出費を強いられた。
谷ケ村兵八は炭焼きの元締めをしていたことから、その裁判のためにたびたび出府していたが、その資金繰りに窮した。
谷ケ村の藩からの拝借金は一七両に及んだ。
そのうち金一二両余は、「永拝借」となり、残りの金五両二朱は無利息五〇年賦という破格の条件で返済することになった。
(6)谷ケ村兵八の炭焼き
この事件に関係した人物の一人、谷ケ村兵八の裁判後の活動の一端を紹介しておく。
嘉永五年(1852年)八月、世附村の御林内で炭の焼きだしを巡って事件があった。
谷ケ村の兵八は、事件ののち、安政四年(1857年)に世附村の字六郎小屋にある土地を神縄村佐次兵衛に示談のうえ譲っているが、その際、この土地について「御上様へ御願い立の上、勝手次第炭焼出しなさるべく侯」と、炭焼きには何ら問題がないことを申し添えている。
このことは問題の土地が入会地ではなく、兵八が「先年私方へ買い請け」土地であることから、その用益に関して独占的な権利を持っていたと考えられる。
その土地で勝手に入り込んだ山市場村金右衛門、湯触村仲治、真右衛門の三名が、炭の焼き出しを行なったことが事件の発端となった。
兵八は何度かの話し合いの後、藩に訴えを起こしたが、川西村・皆瀬川村・神縄村・中川村四か村の名主が仲介に入り、内済の方向で話し合いが進められた。
兵八が相手方に請求した雑用金八両と炭九五〇俵は、相手が困窮の者という理由で金三両三分と炭六〇〇俵に減じ、その炭は川村山北に出荷し、相手方三人がそれぞれ一〇〇俵分の代金を受け取り、残りの三〇〇俵分を兵八が受け取ることで決着した(「近史」史科425)。
小田原藩が「意図的に起した国境論争」であったかのように書かれております。
次回は、紛争に巻き込まれた、駿州須走村、湯船村、柳島村、大御神(おおみか)村が、所在する静岡県小山町の町史から引用いたします。
山北町史 通史編 第6章 第4節から引用終わり
甲・相の国境紛争に巻きこまれた駿河の村々は、その論争に積極的に参加しておりませんが、隣村として公平にこの論争を見ているかもしれません。(一部に山北町史と重複する部分があります)
小山町史 第9巻 民俗編 第5章 村の権利をめぐる争論を引用いたしました。
世附山(駿・相・甲三国)論争
世附山争論の関係村々
当 時 |
国 | 甲 斐 | 相 模 | 駿 河 | ||||||||||||
郡 | 都 留 | 足柄上 | 津久井(県) | 駿 東 | ||||||||||||
村 | 山 中 村 |
長 池 村 |
平 野 村 |
道 志 村 |
世 附 村 |
中 川 村 |
青 根 村 |
青 根 原 村 |
牧 野 村 |
須 走 村 |
大 御 神 村 |
中 日 向 村 |
上 野 村 |
湯 船 村 |
柳 島 村 |
|
支 配 |
○ | ○ | ○ | ○ | △ | △ | △ | △ | △ | △ | ○ | △ | △ | △ | △ | |
現 在 |
県 | 山 梨 | 神 奈 川 | 静 岡 | ||||||||||||
郡 | 南 都 留 |
足 柄 上 |
津 久 井 |
駿 東 |
||||||||||||
町 村 |
山 中 湖 村 |
道 志 村 |
山 北 町 |
津 久 井 町 |
藤 野 町 |
小 山 町 |
○・・・・幕府領 △・・・・小田原藩領
津久井県の名称は、元禄4年(1691)愛甲・高座両郡に含まれていた村を分離独立
させ、この名称を用いた、津久井郡と改めたのは明治3年(1870)のことである。
駿河の国境の村々(小山町史から引用)
甲斐国と境を接する村々は、中日向村・大御神村・須走村の三ヵ村である。
中日向村の村境は相僕・甲斐の二か国の国境となっていた。
さらに三国峠(三国山)では相模国・甲斐国が境を接していた。
国境は村々の境でもあった。
相州側は、谷ケ村・世附村が国境を村堺とし、甲州側は、平野村が境を接していた。
国境は山林地帯であり、その林野資源を村人たちは利用していた。
甲州・相州の国境をめぐる争いとなる山論は、影山(新山)争論といわれる。
江戸幕府領であった甲斐国都留都平野村(山中湖村)と小田原藩領であった足柄上郡世附村(山北町)との山論であり、
これは国と支配を異にしていることから幕府に提訴されて、弘化四年(一八四七)幕府評定所の裁許がくだされた。
現在の県境は、このときの裁許が基準となるが、地理的にいえば、丹沢山系の三国山から東北方面に連なる山林地帯が県境となっている。
論地一帯は、甲州側からは 「影山」と呼ばれ、相州側からは「新山」と呼ばれた。
歴史的にみると、駿州側からの国境についての関わりは、宝永四年(一七〇七)の富士山噴火以前と、それ以後では様子が変わる。
噴火以前は国境を通じて、他国とのつながりが濃厚であった。
噴火以後は、噴火による被害をうけたために、山林を若干利用する程度にとどまった。
砂降りの被害で利用価値が乏しくなってしまうと、周辺地域に住む人々の林野に対する意識も変わったのであろう。
林産資源の得られなくなった地域をめぐって、隣村と境を確定しなくともよくなり、また自村の入会用益を主張する
ことも余りない地域となったために、国境争論への主体的参加はなくなる。
弘化四年(一八四七)裁許の甲相国境争論へ駿州側が余り積極的に参加しなかったのはこのような事情があったからであろう。
甲相駿の三国の境になる林野地帯は、甲州平野村からほ約二キロメートル、相州世附村からは約一四キロメートルという地域であり、距離的関係から平野村の独占的利用にゆだねられてきた。
ところが宝永四年(一七〇七)の富士山噴火にともなう降砂により、三国山西山麓の平野村側に特に被害が多く、平地での農業生産の低下を補う意味から、山稜ぎ(板等の木材の伐出)、薪炭材の産出、山畑・切替畑(焼畑)利用の必要が高かまるようになった。
他方、相州世附村と甲州との境は、尾根筋(稜線)を国境とし、いわば自然地理的に境界が認識されており、平野村と比べると世附村のこの山林地帯への依存度はやや薄いものであった。
しかし、近世中期以降になると、世附村もこの地帯は林産資源が豊かなため、距離的に不便であるといって手をこまぬいてみている訳こは行かなくなった。
領主である小田原藩もこの林野地帯へ注目するようになり、安永元年(一七七二〜四)には「新山」に小田原藩の「御林」を設定した。
その結果甲州側からの利用を無制限に許認しているわけにはいかなくなった。
新山(影山)の領有をめぐっては直接関連があるわけではないが、駿州側の諸村のうち小田原藩領の村々は、甲州平野村と相州世附村の対立に巻き込まれることになった。
安永九年(一七八〇)、世附村は小田原藩奉行の巡見という形を取り、平野村の入会現場に立ち入り、差し押さえを行なった。
また、伐木の斧やなた・鎌などの道具を取り押え、林野資源の搬出用の馬道を切開いたこをとがめた。
しかし結果的には、小田原藩を背景とする世附村に対し、平野村から詫び状が、安永九年十月に出されたことで、この時はひとまず決着した。
次にこの一帯が争論の対象となってくるのは、文化十年(一八一三)である。
平野村の者が林へ入り、板材を採取していた行為を、世附村が安永の詫び状一札を根拠に差し止めようとして起こした争論である。
平野村側が、相州側の世附川上流地帯に入り込み、板材や細工に用いる木を採取していたことは、そこが明らかに世附村の地内であることからすれば不当な行為であったろう。
しかし平野村側が慣行上の実績と権利を主張して譲らなかったので、世附村側は同一領主の支配である駿州菅沼村名主重右衛門と相州曽我別所村大兵衛に仲介を依頼することになった。
ところが、これについて内済が準備されつつあった最中に、世附村側は木材の伐出作業を開始して、平野村側の態度を硬化させ、世附村側が詫び状を入れなければならなくなった。
安永時とは逆になったかたちで、世附村は詫び状を出した。
当時影山あるいは新山と呼ばれる山林地帯は、世附村地内ではあるが、平野村も入会って利用がなされていた。
とくに天保七年(一八三六)にほ記録的な凶作があり、郡内騒動も起こった。
そのような社会的な状況からしても、甲州側からの入会利用は高まっていたことがこの争論の重要な契機であったと推察される。
さらに天保十年(一八三九)に小田原藩と世附村が図り合って山論を誘発したかのような事態がおこった。
相州世附村はそれまでほとんど利用していなかったにもかかわらず、この山林地帯の用益の実績を作ることで、甲州平野村の入会利用とわざと対立させようと図ったのである。
このとき小山町域の村々のうち、中日向村易右衛門と柳島村長三郎が関わりを持った。
すなわち、世附村が新山続きに、相州神縄村佐右衛門、相州谷ケ村兵八、相州矢倉沢村清蔵、駿州中日向村易右衛門、駿州柳島村長三郎に山林を払い下げ、その人達に炭焼窯を作らせ、炭焼をはじめさせたのである。
これに平野村が反発し、天保十二年(一八四一)九月に炭焼窯の破壊行為にでた。
世附村は、平野村の破壊行為を小田原藩へ注進した。
小田原藩では藩の山方の下役人を差し向けて、世附村のものから平野村の破壊行為の報告を受けた。
ついでそれは世附村の者の連名で、小田原蕃山方御役所宛の申上書として提出された。
小田原藩の山方奉行の辻平内・梁瀬佐織両名は甲州平野村の支配代官所谷村の笹本彦次郎宛に九月二十八日付けで抗議書を送った。
これに対する平野村の支配代官からの対応は文書として残っていないので詳細は不明であるが、後の経緯などを考え合わせると、代官所側の対応は必ずしも誠意あるものであったとは考えられない。
ついで十一月一日、再び小田原藩の山方奉行辻平内・梁瀬佐織の名をもって、谷村代官手代大塚大作あてに抗議文が送られた。
このとき世附村を中心とした村々は領主である小田原藩と緊密な連絡をとった。
藩もこれに応えて、世附村が甲州平野村側の不当な行為を取り押さえると、すぐに検使を派遣した。
こうして小田原藩領の数か村は地域的結合をみせて甲州側に対処した。
他方、甲州側の支配代官の態度は、平野村名主勝之進の主張を全面的に受けいれるだけであったため、勝之進は事件の初発から、弘化四年(一八四七)の裁許まで、ほぼ一人でこの争論をたたかうことになった。
勝之進が出訴人となっている天保十二年(一八四一)十月の出訴理由書とでもいうべき史料をみると、「国境押領出入」と記されている。
相手方は、相州足柄上郡世附村の組頭八名と駿東郡中日向村百姓易左衛門、足柄上郡神縄村名主佐右衛門、谷ケ村百姓兵八、矢倉沢村百姓清蔵、曽我馳所村引合人大兵衛、駿東郡菅沼村引合人重右衛門、上野村引合人百姓童右衛門、中日向村百姓善左衛門であり、いずれも小田原藩の領民であった。
勝之進はこの出訴理由書を谷村代官所に提出し、その添簡を受けて、幕府奉行所へ提出しようとした。
訴状は正式には十一月晦日付けで提出された。
当初、勝之進の訴状では「国境押領出入」とあったのがここでは「地所出入」と変えられていた。
それは代官所の国境認識が薄く、領主としての領有を主張するというものではなかったためである。
後に「地所出入・国境押領」とされたのは勝之進をはじめとする村の意識の現れであり、その認識はあくまで国境争論であり、その前提には国境を越えても地元の入会慣行を守ろうとする意欲が存在していたといえる。
天保十三年(一八四二)二月一日、幕府は佐橋長門守佳富らの連署をもって評定所での対決の命令書を双方へ出し、翌年二月から召し出し吟味取調べが開始された。
天保十五年二八四四)四月には、評定所白洲での正式な裁判がはじめられた。
甲州平野村からは勝之進1人が召出され、相手方からは世附村はじめ前述の村々の村役人たちが召出された。
また、小田原藩側の立ち合い証人として、小田原藩領中川村、駿州須走村、湯船村、柳島村、大御神村が、原告の甲州側からは甲州郡内道志村、山中村の代表が呼び出された。
原告(甲州側)は神田仲町坂野屋に、被告(相州側)は芝浜松町上総屋に、立ち合い証人は馬喰町植木屋に止宿した。
四月八日から奉行所での裁判が始まるが、本審理に入ったのは二十七日で二十九日までが第1回であった。
裁判の担当奉行は石河土佐守政平、脇役は増田作右衛門・赤木唯五郎の二人であった。
以降隔日か三日おきぐらいに召集され、審議は続いた。
七月七日から八月十日までに召喚者は帰村させられ、再び江戸に召し出されたのは、八月十二日であった。
九月六日までは定宿で待機し、九月七日から九月十九日まで吟味取調が行なわれた。
その間、江戸城本丸の火災や、将軍の御成で吟味を中断されたことこともあったが、最も大きなことは、五月二十四日に勝之進が手鏡を言い渡されたことである。
理由は奉行の審議に対して強硬な態度を曲げなかったためとされる。
七月七日にいったんは許されたが、完全に手鎖がとかれるのは奉行石河土佐守が跡部能登守と交代した九月十九日以降のことであった。
その後弘化三年(一八四六)三月二十七日から六月二十六日までの間、勝之進の強い要請で論地の実地見分が行われた。
見分は一一五日にも及び、出役延べ人数は四三〇〇人にものぼった。
また実地見分に動員された人足は延べ二万人にも及び、周辺関係諸村にとっての負担は大変なものとなった。
小山町域の村々で実地見分を受けたのは大御神村・中日向村・湯船村・上野村の四か村で、そのときの史料が残されている(『町史』第二巻429番)。
弘化四年(一八四七)七月、長きに渡った争いは裁許の段階を迎えた。
裁許に連署した人々は、幕府勘定奉行牧野大和守成綱・久須美佐渡守祐明・松平河内守近直・石河土佐守政平、町奉行鍋島内匠頭直孝・遠山左衛尉景元、寺社奉行本多中務大輔忠民・内藤紀伊守信親・脇坂淡路守安宅・久世出雲守広周、老中戸田山城守忠温・青山下野守忠良・牧野備前守忠雅・阿部伊勢守正弘の一四名である。
この裁判では、論所の実地見分に前例を見ないほど多くの出役、日数、費用等をかけたが、双方傍証的な証拠はあっても、決定的といえる証拠はなかった。
また、関係諸村の証言もまちまちであり、原告、被告双方の主張には大きな隔たりがあった。
しかも、奉行所での準拠する基準法もない状態で、最終的には、三奉行と老中合議により、原告甲州平野村側の主張や長年の用益慣行は全面的に否認され、被告側相州世附村側が実績のない新山一帯の用益権を認められるという裁許となった。
裁許状の写しは小山町の各所に残されている(『町史』第二巻430番等)。
小山町史 第9巻 民俗編 第5章 村の権利をめぐる争論を引用終わり
1、はじめに
茅ヶ崎の図書館で偶然見つけた「相甲国境紛争」(足柄の文化12号 石田昇著)を読んで、江戸末期に起きた相州と甲斐との国境紛争に強く興味を持ちました。
特に江戸時代の裁判の進め方や西丹沢の地名(綱越峠・吉政峠・山神峠・くらほね峠・ざれ峠)には興味を惹かれました。
読み進むうちに、紛争の真実を知りたいと思うようになり、また、現地も歩きました。
「峠のむこうへ」さんからは、山中湖村史にもこの紛争が書かれているとのありがたい情報を頂き、更に山北町史・小山町史も読んで見ました。
もう本来の山に戻り、当面国境紛争の調査研究は休止し、またネタがありましたら再開いたします。休止にあたり「尻切れ」にならないように、各市町村史には書かれていない国境紛争の真実を、独断と偏見でまとめましたが、想像の世界ですので的を得ているかどうかはわかりません。
国境紛争は・・・・・・「小田原藩の陰謀」であった。
少し説明を付けると 「小田原藩は、幕府の老中職という強い立場を利用して、世附村で「新山」、平野村で「影山」と言われた地域を領地にすべく、計画的にことを進めた」。
「計画的」という部分は、結果的にそうなったもので、断定することはできない。しかし、小田原藩には領地を広げる意思があったことは事実です。
2、まずは、紛争地の整理から(国境紛争地域の地図)
下記に紛争地の範囲を整理しました。(以降は「紛争地」と書きます)
(1)平野村が主張したと世附村との村境は。
三国峠(三国山)〜大棚上〜山神峠
*水ノ木沢・金山沢・大棚沢・土沢左岸の上流地域でかなり広大面積。
(2)世附村が主張した平野村との村境は。
三国山〜高指山〜山伏峠〜菰釣山 水わけ(尾根筋)
(3)道志村が主張した中川村との村境
@山神峠〜くらほね峠(二本杉峠)〜箒沢二俣杉(箒杉)〜犬越路
A青根村との村境
犬越路〜神ノ川沢筋〜道志川・神ノ川の合流点
*大又沢の千鳥橋から上流の流域か?
(4)中川村の主張した道志村との村境
菰釣山〜大群山
(5)青根村が主張した道志村との村境
大群山〜尾根筋〜道志川・神ノ川の合流点
(6)紛争地は、今の国有林や県有林ではないかと想像し調べて見ました。
紛争地はほぼ今の国有林や県有林の区域に匹敵した。
神奈川県森林図から一部引用
3、曖昧であったために発生した紛争
(1)官庫の絵図面の境(紛争以前の国境)
「官庫の御絵図面に、甲州と駿州との国境は、籠坂往還上より駿州の方へ少し下ったところが国境であるとあり、右の往還の西方は無間谷までの間、東の方ほ綱峠(三国山)まで、山国境知れずとあり。
かつ、平野村・世附村並びに道志村・中川村・青根村・青野原村・牧野村七か村の係争地のうち、三国山より東方は相州世附村・駿州柳島村の間、荷下し場まで、西北の方は相州青根村・甲州道志村の間、神野川・道志川の落合まで、どれも山国境知れず」 とあり。古くから境界が確定していなかったものと思われる。
(2)曖昧な国境と紛争の発生原因
@その1
重要な点は、小田原藩において、厳密に国境について把握していないこと。また、これと裏腹のように、世附村においても村境にたいする明確な証拠がないことである。
この点については平野村側にも同じようなことが指摘できるが、実際問題としで、平野村では、世附村が主張する村内で古くから山稼を行なっていたり、切替畑を作っていたことがみられる。
山稼の場所をめぐる平野村と世附村の紛争は、山林に対する需要が増加したことに原因がある。つまり、江戸という土地に、山稼による品物を送るということ。
つまり、江戸という消費市場が、このような山地にまで、その商品の原産地として求めても採算がとれるまでに、市場を拡大したということである。
ここには、小田原という市場をこえて拡大した商品市場のために、世附村をはじめ他の村々が積極的にのり出したとみることができる。
Aその2
国境に関する文書資料上の明白な証拠ということになると、過去において紛争があり、これを幕府評定所において裁決するか、もしくは、村と村、もしくは領主間において合意のうえで境を決定する以外には証拠とする価値のあるものはないであろう。
国境・村境が明白であって、そのうえで詫証文をとっているならばともかく、境が明白でなくて詫証文をとってみても、その地域を確定することができなければ、これもまた有力な証拠とはならない。
国境・村境については、平野村に有力な証拠がないと評定所役人によって指摘されても、同じことながら世附村についてもこれが指摘される。
天保期になって、平野村と世附村とで、山稼ぎの場所をめぐって対立や競争が生じたということは、世附村の方に、この場所についての経済的な依存が生じたからにほかならない。
4、小田原藩の陰謀について
@
影山あるいは新山と呼ばれる山林地帯は、平野村も入会って利用がなされていた。とくに天保七年(一八三六)にほ記録的な凶作があり、郡内騒動も起こった。
そのような社会的な状況からしても、甲州側からの入会利用は高まっていたことがこの争論の重要な契機であったと推察される。
さらに天保十年(一八三九)に小田原藩と世附村が図り合って山論を誘発したかのような事態がおこった。
世附村はそれまでほとんど利用していなかったにもかかわらず、この山林地帯の用益の実績を作ることで、甲州平野村の入会利用とわざと対立させようと図ったのである。
このとき小山町域の村々のうち、中日向村易右衛門と柳島村長三郎が関わりを持った。
すなわち、世附村が新山続きに、相州神縄村佐右衛門、相州谷ケ村兵八、相州矢倉沢村清蔵、駿州中日向村易右衛門、駿州柳島村長三郎に山林を払い下げ、その人達に炭焼窯を作らせ、炭焼をはじめさせたのである。
これに平野村が反発し、天保十二年(一八四一)九月に炭焼窯の破壊行為にでた。
世附村は、平野村の破壊行為を小田原藩へ注進した。
小田原藩では藩の山方の下役人を差し向けて、世附村のものから平野村の破壊行為の報告を受けた。
ついでそれは世附村の者の連名で、小田原蕃山方御役所宛の申上書として提出された。
小田原藩の山方奉行の辻平内・梁瀬佐織両名は甲州平野村の支配代官所谷村の笹本彦次郎宛に九月二十八日付けで抗議書を送った。
これに対する平野村の支配代官からの対応は文書として残っていないので詳細は不明であるが、後の経緯などを考え合わせると、代官所側の対応は必ずしも誠意あるものであったとは考えられない。
ついで十一月一日、再び小田原藩の山方奉行辻平内・梁瀬佐織の名をもって、谷村代官手代大塚大作あてに抗議文が送られた。
このとき世附村を中心とした村々は領主である小田原藩と緊密な連絡をとった。
藩もこれに応えて、世附村が甲州平野村側の不当な行為を取り押さえると、すぐに検使を派遣した。
こうして小田原藩領の数か村は地域的結合をみせて甲州側に対処した。
A小田原藩からの和解案
都留郡谷村名主・文左衛門の添書をもって郷宿の甚助が、小田原報徳金次殿より都留郡小沼村・甚兵衛・茂兵衛・久右衛門一同が頼まれて和解を申し入れてきた。
しかし、他藩領に関することであるので、御支配様にうかがい出たところ、和解にせよということで甚助と交渉したがうまくいかなかった。
三月九日に小沼村・甚兵衛が和解について申入れがあり、谷村・甚助が江戸へ行っているのでこれに頼み、交渉を馬喰町の植木屋・藤兵衛方へ行き交渉があった。
同人がここでいうのは、二百両を出すので、相手村方のうち、世附村を係争地に入会わせ、その際の証文には字名を抜いて先規の通りとすると申入れがあったが、このような証文を出すと、後にまた紛争のもとになるということ、御奉行所様が果たして認めるかどうかもわからない。
もともと、小田原藩御林山ということであるのならば、このような大金を平野村に出して和解するというのはおかしい。
世附村のいうような境を決めれば、平野村は山役永を上納して山稼をしている場所を離れることになるので大変なことである。
小田原藩の意向をうけたのであろうか。仲介人が和解の条件を示し、二百両で係争地を世附村の入会としたらどうか、ということである。
二百両は小田原藩が出すのであろう。これについては、平野村は同意していない。
5、公平ではない裁判
記録について見るかぎり、留役の訴訟進行にほ、きわめて強引なところがある。
平野村・道志村の主張ほ誤りであった、という文書を評定所へ提出させて、結審にもっていく方法である。
さすがに、この方法にたいして道志村にも抵抗するところがあったのであろう。
しかし、評定所による強制にたいして、道志村が徹底的に抵抗することは、およそ不可能なことである。
この裁判は、すでにその当初から平野村の敗訴、したがって小田原藩の勝訴をもって終ることが予定されていたとしかいいようがないからである。
幕閣において、小田原藩主・大久保加賀守がどのような働きかけを行ったのかは明らかではないが、働きかけがないとはいい切れない。
幕閣とはそのようなものだからである。
幕府評定所は勘定奉行に属し、勘定奉行は旗本のなかから出るが、老中のもとに置かれる。
いわば、譜代大名が訴訟指揮をとるばかりでなく、人事をも決定するわけであるから、老中職を勤めた小田原藩のような譜代大名との領地紛争となると、はたして公正に裁判を行なえることができるかどうかも問題であろう。
すでに述べたように、平野村の訴訟は、口頭弁論(対決)のはじめから平野村に不利なかたちではじまっている。
専門審査官(留役)としての評定所の役人も、はじめから平野村に不利な内容で審問して審理を進めているほか、道志村についても同じような態度でのぞんでいる。
訴訟全体の流れからみると、この訴訟の第一段階において、平野村・道志村の敗訴は決まっていたといってよい。
6、あとがき
小田原藩を悪とするまとめになってしましたが、紛争地が相州・甲州のどちらに属するか断定することは難しい。
奉行所での準拠する基準法もない状態で、最終的には、三奉行と老中合議により、原告甲州平野村側の主張や長年の用益慣行は全面的に否認され、被告側相州世附村側が実績のない新山一帯の用益権を認められるという裁許となった。
もともと、境界がはっきりしていなっかたために紛争が発生したのであろうが、初めから小田原藩有利で裁判は進み、平野村勝之進は、ただ1人小田原藩を相手として孤軍奮闘し、白州ではお縄を掛けられるほど、評定所役人の説得に抵抗したが、最終的には敗訴してしまう。
紛争地の水ノ木周辺は、平野村から約二キロメートル、世附村からは約一四キロメートルという距離的で、平野村が利用していたことは、現地を見るかぎり間違いのないことである。
入会実績は、イコール土地所有ではないが、世附村側が水ノ木周辺の実績のないの用益権を認められるという裁許となった。
しかし、裁許状は国境を確定したものであって、平野村の入会まで否定したものではなかったらしく、その後も平野村の入会は継続した。明治に入り天領と同様に、小田原藩私領も国有林になってしまう。結局どちらが勝っても国有地になってしまった。
以上