吉野と足柄                 

(歴史ロマンを求め、西丹沢で後醍醐天皇陵を探した男の物語)

1、はじめに

「吉野と足柄」とは、西丹沢の世附川にかる「芦沢橋」付近の山中で、後醍醐天皇の御陵(墓)を私財を投じ発掘した人の話です。
その人は、通称「小田原の後醍醐さん」と呼ばれた、(故)和田久治さんです。

和田さんは、その記録を自費出版で「吉野と足柄」という本にまとめ残しました。(茅ヶ崎図書館所蔵)
この本が私の住む街の図書館に所蔵されていたことも何かの縁を感じます。

後醍醐天皇は南北朝時代の天皇で、すでに奈良の吉野に御陵があり、なぜ足柄(西丹沢)と関係があるのか突飛に感られると思います。
一例を書くと、
@山神峠の山神の台座には菊の紋章が刻まれており、天皇と関係があるのではないか?
A同じく山北の皆瀬川流域の部落で伝承されている「お峰入り」の行列は、「後醍醐天皇」の行列ではないかと言っています。

内容の信憑性はともかく、順次、ご紹介していきたいと思っております。

しかし、真実はご想像にお任せいたしますが、大きくかかわってくることは、当時山北を中心にこの地域を治めていた河村氏とその城である難攻不落と言われた「河村城」の存在です。

今回は、手始めにその発掘現場を、捜しに行きました。



2、発掘現場の位置

天獏魔王社の場所が発掘現場



「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び
数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平20業使、第519号)」




天獏魔王社



白旗社(源氏ゆかりの神社)



3. 「丹沢山中の世附御陵説」 中 野 敬 次 郎 (小田原市文化財保護委員) 
     かながわ風土記
から引用しました。
    
     内容が簡潔に説明されており大変参考になります。


 西丹沢の三川(中川、世附川、玄倉川)の一つの世附川に沿った世附集落の近くに、後醍醐天皇の御陵があると信じて、これを世に出そうとその想定した地点を生涯掘り続けた一群の人達があった。 

小田原市中島一五一番地(今の寿町)の和田久治氏とその同志の人達であるが、その事業が中途で絶えて成功せずして終わり、すでに三十年を経過してしまった。 今は和田氏を初め同志の人々も多く故人となり、世間から忘れられてしまったが、二十年間に亘る発掘は当時大いに話題となったものであった。    
 和田氏はこの問題について「足柄山中謎の遺跡について」という一本を書かれ、生前これを持って一日私の宅を訪ねて来られて、史実の賛同を要請せられ、か
つ発掘事業への援助を求められたことがあった。
 私は面白い話とは感じたが、当時この説の結論にはどうしても賛同し得なかったので、話し合いは続かなかったが、大いに気にかかり、前述の「地蔵平往来」の当時、発掘の現地を数回訪問したことがある。 

三保の地の玄関口の落合から世附川に沿って真東にすすみ、世附、浅瀬の二集落を過ぎて、地蔵平から流れてくる大又沢が世附川に合流する地点から、世附の本流を更に東に進むと、また北の方から流れてきて世附川に合流する小渓があって、その渓流を中にはさんで、数千坪のやや平地があり、そこの小字を悪沢という。 

「新編相模風土記」などには洗沢(アライサワ)または足沢(アシサワ)と書いてあって、それがいつしか悪沢と書くように変じ、今は里人はもっぱら「ワルサワ」 「ワレサワ」と呼んでいる。

 後醍醐天皇の御陵があるというのはこの地点で、御陵を探し当てようという人々によって大きな竪穴が二ヵ所発掘されたが私が、初めて訪れた時にはもう一旦中止され、半ば埋れかかっていて、附近には人影もなかった。

 うわさによると、和田氏は多年の山中跋渉と調査とこの発掘のため、家産を傾けられたということであるが、このような人里はなれた避地、そしてこのような山中の寒荒の地に天皇の御陵があると信じて発掘に熱情を傾けた和田氏や同志の人々は、一体何を根拠として、莫大な経費と人力と年月をこれに投入するに至ったのであろうか。 

そもそもの起こりは、西丹沢の山地を跋渉していると、「世附御陵」「日蔭御陵」という言葉が土地の人にいわれていて、世附の山中に天皇の御墓があるとの伝説があるのを不思議に思っていたところに、たまたま和田氏の同僚の一人が、大正十五年に立木検分のため当時の足柄上郡三保村世附の山中に入った際、この悪沢の地で、十六弁の菊花紋章を刻した石祠のあるのを発見した。



これは皇室の御紋章だと驚き、かかる山奥に十六弁の菊花紋を石に刻したものがあるのは、「世附御陵」「日蔭御陵」の口碑の真実を裏付けるもので、その地点がここであると確信するに至ったらしい。

 この菊花紋章については、私も実地に行って見たが、悪沢にある天獏魔王社の礎石に刻されてある。 

なお、十六弁菊花紋はもう一つ、この地点から甲州の山中湖畔にある平野村に抜ける途中の山神峠にもあり、ここの石祠の山神社の台石にも同様のものが刻されてある。 

さて、この天獏魔王社については、 「新編相模風土記」にも世附村の項に記されてあって、「白旗社、天獏魔王社、両社共二村民私二祀ル所ニシテ、他村ニテハ此ノ両社ヲ足沢権現ト称ス」

 とあり、よほど古い社祠であるらしいが、宝暦三年(一七五三)奉納の鰐口に、「足沢魔王大権現、足沢白旗大権現」と記されてあるし、里人は今も天獏魔王大権現、白旗権現と呼んでいるという。

 そこで和田氏とその同志の人々は考えたのである。この祠社は余程古いものであるし、山神峠の道路も古い甲州への越路である。このような地点に十六弁菊花紋が二ヵ所にも石に刻されてあることはただごとでなく、十六弁菊花紋は皇室の御紋章であるから、この地点一帯は皇室に関係のあるところに違いない。たまたま、足柄、丹沢の山中に後醍醐天皇の御陵があるとの口碑があるから、必ずや御陵がこの山中にある。その地点は悪沢の地の外にあるまいと想定しためであるらしい。(この項続く)



4、丹沢山中の世附御陵伝説 かながわ風土記1982年5月58号から引用しました。

前述した丹沢山中の岩刻十六年菊花紋が丹沢御陵の実証と叫ぶ和田氏一類の人々はもう一つ、次のような伝説を強く主張するのである。

 山北町の西北で今は同町の一部であるが、もと足柄上郡都夫良野村と呼ばれた山中の一集落がある。 

その部落の人々の自伝によると、この村はもと世附村の悪沢から移住してきたものであって、それ故、明治維新の頃までは都夫良野の人々が悪沢の天獏魔王社と白旗社に五穀と神酒を持参していって、祝典をあげたものであったということである。

 この都夫良野に二十数代も続いた大家(おおや)と呼ばれて尊敬される旧家があって岩本円三郎氏というが、同家の祖先とその家臣達が悪沢の川を挾んで埋葬されてあるといわれるのから推量して、天獏魔王社は岩本家の祖先悪沢伊賀守を祀り、白旗権現社は、伊賀守の家臣達を祀ったものに違いないと言うのである。

 「足柄山中謎の遺跡について」の著者、和田氏は更にいう。 

この都夫良野は、今は「つぶらの」或は「つぶらんの」と呼んでいるが、本来はそう読むべきものでなくて、 「みやこ(都)」「それ(夫)」「よしの(良野)」と読むべきものである。 後醍醐天皇が晩年に吉野山を逃れて、この丹沢山中に潜幸あそばされて、この地に都を定められたのである。

 天皇の股肱の臣北畠親房の書いた 「神皇正統記」に、「大日本島根は本より皇都なり。内侍所、神器も芳野におはしませば、いづくか都にあらさるべき」 と、述べているように、この僻地山奥の丹沢山であっても、天皇が都を定められたならば、即ち吉野であるという意味で、天皇が都それ良野」と仰せられたところから、都夫良野 (つぶらの)という村名が起きた。

 ところで、現在の都夫良野村は、もと悪沢の地から移住したのであるから、本来の都夫良野は悪沢にあったのであって、悪沢こそ後醍醐天皇の最後の帝都であり、皇居のあったところであったのであるというのである。

 まことに面白い説をたてたものだと思うが、その著者は更に続けて言っている。

そもそも悪沢伊賀守というのは、秘密を守らんがために潜字を用いたのであって、試みに伊賀守を顛倒すると 「かみのがい」 となる。即ち 「神の骸」となる。 

これ後醍醐天皇の御遺骸を示す言葉となる。悪沢の天獏魔王大権現の祭神名の「天獏魔王」の四字の魔王の二字の上下二字をとると「天王」となって天皇の意である。

それ故 天獏魔王大権現は後醍醐天皇を潜祀した神名であって、白旗大権社は、元来白旗社は源氏の奉祀する神社であるから、ここも後醍醐天皇の股肱の臣である清和源氏の新田義貞が、村上源氏の北畠親房かを祀る神社であろう。

 後醍醐天皇の御陵はこのような点から類推すると、この悪沢の地点になければならないというのである。 

以上が和田氏が同志の人々を糾合して、それらの人々が強い信念のもとに、悪沢の地に御陵解明の大発掘を多年にわたって敢行した理由の大体の要旨である。

 いささか牽強附会に過ぎてすなおには納得し難い説であるが、その考証は後に譲って、一先ず、次に言うところの著者達一類の人々のまた言うところを聞くことにしよう。 このような訳で、同志の人々が強い信念を持って発掘に着手したのは昭和六年(一九三一)からで、この年三月から試掘を行い、翌年の昭和七年三月から本格的な発掘にかかったのである。

 さて、その発掘すべき地点、つまり天皇陵と推定される正確な位置を何に基いて算出したかというと、前記した都夫良野の旧家岩本家に伝わる古くからある口伝の「三足、足中、杖の下(みあし、あしなか、つえのした)」という言葉をたよりとしたのである。

 つまり、この口伝の言葉は天皇の御遺骸をひそかに葬ったときに、その地点を示す暗号として同家に残されたものであるというので、これを解釈して一足を一間、

三足ならば三間と解釈し、「天子は南面す」というからとて、天摸魔王社の位置の南に三間四方に穴を掘り、「杖の下」をその中心部と考え、その穴下に御遺体を埋葬してあるものとして発掘に当たったようである。

 しかし数年間の発掘も空しく御陵はついに発見するに至らなかった。

 

・世附御陵の存在是非

 丹沢山中における世附御陵、日向御陵といわれる後醍醐天皇御陵伝説の概要はほぼ以上説明のような次第であるが、なお和田久治氏の書かれた「足柄山中の謎の遺跡について」を通読すると、このような話の他に、天皇の御陵を丹沢山中にありと氏が断定するに至った資料の例証をなお多数あげているが、全文を通じてあふれている熱情と信念については、誠に敬服の外ない次第であるが、例証は真の例証とはならず、いわゆる牽強附会に落ちていると思われるものの多いのは遺憾なことである。 

悪沢の天摸魔王社にしても、著者はこれでもって、後醍醐天皇を潜かに祀った神社であると解釈して、ここを御陵墓の位置であると想定して、すこぶる大切に取扱っているけれども、これは恐らく誤りで、天獏社は他地方にもよく祀られてある地神のことで、三重県に行くと伊勢街道に沿うて天白村というところもある程で、伊勢(三重県)、尾張、三河 (愛知県)地方では天獏社を天白社といい、それより東は関東、奥羽の仙台附近まで分布しているようだが、関東、奥羽にくると、天獏社、天波社(てんばく)と言っており、珍しい神社ではないのであるから、丹沢山中のものもその一つであって、丹沢山中のもののみに後醍醐天皇に結びつけようとしても無理なことである。

 十六弁菊花紋にしても同志の人々が一番問題にしているところのものであるが、残念ながらこれはそんなに有力な資料にならないと思われる。

 そもそも皇室が十六弁菊花紋を御使用になったのは平安時代の末期からのことで、鎌倉時代に入ってから後鳥羽天皇の頃から皇室の御紋章とはなったが、皇室以外の家柄が使用しても差しつかえがなく、明治ニ年に太政官布告をもって皇室以外に菊花紋章の使用が禁止されたので最高権威の御紋章になったのであって、それ以前に菊花紋を使用している家柄は多数ある。

 明治以前には皇室と皇族諸家が皆々菊花紋章であったのは申すまでもないが、公卿、武門諸家にても多数用いていて公卿六家、武家では実に百五十家に及んでいる(沼田頼柿著「紋章学」)。 

菊花紋章には十二弁、十四弁、十六弁その他数種があるが、皇室と同様の十六弁菊花紋章を用いていたのは公卿六家は全部であり、武家も過半数を占めているのであるから、これを見出したからとてそんなに重大な問題ではないのである。

 明治二年太政官布告以来、皇室関係以外のところでは、紋章を変更したり、菊花紋のついているものは皆壊してしまったので残らなくなったが、人跡の少ない丹沢山中の奥地になどでは、それが残ったということであった。ただ、十六弁菊花紋は以上のような次第であるから、たまたま今にその一部が存在することは不思議はないが、これが丹沢山中の奥地に石に刻されて存在することは、

確かに一つの問題になり得るのである。

 和田氏の問題にしている菊花紋は、悪沢の天獏魔王社の礎石と、山神峠の山神石祠に刻されたものとであるが、和田氏の見落としているもので、私の知っているのでは、共和(山北町)の竜集権現の石祠にも十六弁菊花紋が刻されている。他にもまだ多少あるであろう。

 石祠や岩石に刻したものでないか、共和の鍛冶屋敷集落の地蔵尊、山市場(山北町)集落の地蔵尊などの厨子にも金色の菊花紋が付せられてある。たしかに丹沢山中、山麓地域には十六弁菊花紋の附せられたもりが多い。

 これを解釈する一つの手がかりになることは昔、山北、丹沢地帯に雄威を張った河村氏が十六弁菊花を家紋としていたことを知っておくこと恥必要である。

 河村氏は藤原秀郷流の相模豪族であるが、一体藤原秀郷流の武家には菊花紋章を使用するものが多かった(河村氏の一族は十四家ある)。河村氏が十六弁、一党の有名な松田氏十四弁であった。

丹沢山はいわゆる河村山(源平盛衰記、太平記)の一部で、河村氏の支配下の地であり、また南北朝時代に同家が南朝方に孤忠を守って大いに北朝方と戦った土地でもある。 

西丹沢山中は河村氏が没落後の一族潜入地、河村氏落人潜住地でもあるから、これらの菊花紋を河村氏遺跡に結びつけることは大いに可能性があるであろう。

 しかし私はもう一つ、十六弁菊花紋章について理解してもらいたいことがある。それはロクロ師の丹沢入山ということである。

ロクロ師(轆轤師)とは木地挽業者のことで、ロクロをまわして木工をやる木地屋で、木地挽なるものは、平安時代の初めから起きた業者といわれているが、文徳天皇の第一皇子惟喬(これたか)親王はこのロクロの発明者であるといわれている。

 親王は文徳天皇の御嫡男でありながら、御母が摂関家の藤原氏の出身でなく、紀名虎(きのなとら)の娘であったので藤原氏の圧迫をうけて皇位につけず、且つ、天皇に対して謀叛の計画があると讒言されて配流の身となられ、江州(滋賀県)の小椋荘(おぐらのしょう)に引きこもられて、ここでロクロを考案されて荘民に、木地挽業を伝授されたというので、この伝承から、昔の木地挽業者は、惟喬親王を業祖とあがめて、自分達はその後裔子孫であると信じているのであった。

 これらのロクロ師達は各地に集団を作って移住土着、あるいは遊歴移住するのである。

 多くは山麓や山間の底地に集落を作って、その背後の山中の用材の多いところに工作場、つまりロクロ場(ば)を持つのが習わしであった。

 彼等はその作業場や伐木の場所などにおいて、自己集団の勢力圏を示す意味から十六弁菊花紋を石祠や岩石に刻する習わしがあるが、これはロクロ師達が天皇の第一皇子たる喬惟親王の子孫たるを自負して十六弁菊花紋を家紋として刻するのであるらしい。

 丹沢山塊は木地挽の絶好の作業場であり、住居地であるので、多数の人々が所在々々に用材採集の縄張と工作場を持っていたに違いない。丹沢山中の十六弁菊花紋は恐らく彼等の遺跡なのであろう。

 さてもう一つ話がある。

 北畠親房が「神皇正統記」に、延元四年七月に彼が皇太子義良親王を奉じて、伊勢の海から東国経営に渡航した際に、伊豆の崎で暴風雨にあって、親房の船は常陸国(茨城県)へ親王の船は伊勢国へと、二つの船が分かれ分かれとなって漂着した有名な事実を書いているが、「足柄山中の謎の遺跡について」の著者は、この記事を疑って、伊豆の沖合で暴風にあった親王の船が、再び出発地の伊勢海に押し流されたということは常識として考えられないとして、これは親房が事実を秘する意味で伊勢の海を仮称したのであって、本当は相模の海のことであるとしている。そしてまた、義良親王が伊勢国に漂着後、しばらく同地に留り、後に芳野(吉野)に入って、後醍醐天皇の御面前にて天位につかれた(後の後村上天皇)ことを「神皇正統記」の中に記して、「儲(もうけの)君に定まらせ給ひて、例なきひなの御住居もいかがと覚え侍りしに、皇太神のとどめ申させ給ひけるなるべし、後芳野に入らせましまして御目の前にて天位につかせ給ひしかば、いとど思ひ合せられ、貴くも侍るかな」と、記しているのを解釈して、先例もない田舎の御住居というのは、伊勢国でなくして相模国である。後に芳野に入って後醍醐天皇の御面前にて天位につかれたというのは、吉野山でなく丹沢山であるといっているのであるが、このような手法で解釈をすすめて行くと、何んでもかんでも丹沢山中に持って来られることになるが、これでは余りにも牽強附会で、歴史上の事実はもっと厳正な研究によって取り扱われるべきものである。

 暴風雨のために義良親王が伊勢国にひきかえし、親王がその後しばらく伊勢国にとどまった後に大和吉野山に入り天位につかせられたことは、「神皇正統記」だけでなく、「元弘日記裏書」「結城宗広軍中日記」「普応寺由緒」「布留屋草紙」などの当時の記録に記されてあることであって、疑うべき余地がなく、また、親王と同じ船に乗っていた北畠顕宗や結城入道宗広が伊勢国にとどまって活 動しているのは事実であるから、動かすべからざる証拠である。

 このように考えてくると、後醍醐天皇が最後に大和国吉野山の皇居を出御あそばして、更にはるかに僻地の丹沢山の如きところに御潜行になったということ、そして丹沢山中に崩御され、そして御陵もまたこの山中にありとする実証は何一つあり得ないのであって、延元四年(一三三九)八月十六日、秋霧に侵かされて、大和吉野の皇居にて崩御ましましたこと、並びにその御陵が吉野山の塔尾御陵として厳然として存在する以上、あえてこれを疑い、丹沢山中世

附悪沢の地にこれが存在する理由を立てる余地はもはや無いであろうと思われる。

 ただ、このような世附御陵とか日影御陵とかいう名が伝わり、丹沢山中の所々に南朝伝説が存在するのは、火のないところに煙はたたぬの道理で、いわれなきことではない。

 丹沢山中は南北朝時代に南朝側の河村氏が新田氏を奉じて北朝側と久しく戦った場所であり、また河村氏、新田氏の画家が没落後の潜入地でもあった。

 新田義興は後に相模矢口の渡で殺されたし、脇屋義治も後に越後に逃れて出羽で死んだが、義治の子新田義則が後に再び西相模に来り箱根底倉で悲運の最後をとげており、子息の刑部少輔は難をまぬかれて丹沢に逃れたと伝え、また義興の室真弓姫は西丹沢の神縄(山北町)の平山に潜住していたという伝説もあるぐらいで新田氏、河村氏、松田氏などの南朝側の人々の中には、丹沢山中に落人として住居した人々が多かったに違いない。

 しからば、これらの人々の間に、南朝伝説が残り、後醍醐天皇を崇敬し奉るの余り、いつしかこのような口碑、伝説が生まれることになったのであろう。

 今後、誰が丹沢山の山中のどこを発掘しても、後醍醐天皇の御陵が発見されることはあるまい。

 和田氏は第一回の発掘に失敗しても、この信念は変えず第二回、第三回と執念を二十年間もやし続けた。

 

そしてこのために一旦家財を湯尽くした。彼が私を訪れて資金の援助と、世附御陵の事実の承認を求めたのはその頃であった。

 私とは勿論のこと史論の合意ができず物分かれになったが、その時にはすでに太平洋戦争が追っており、事業は放棄の状態となった。そして彼も世を去った。戦争直後私が他用のついでに悪沢の地を訪ねたときには、もう発掘の大きな竪穴も大方崩壊して、僅かに跡をとどめた上に雑草が蔽うていた。もう遥かなる思い出となってしまった。





4、西丹沢と吉野朝   石田左近著    足柄ノ文化 13号から引用しました。

 

 

正平七年(一三五二)征夷大将軍宗良親王が、足利尊氏に破れたる報を聞き、鎌倉を一時奪取した新田義興・義治は、松田・河村等の諸将の切なるすすめにより鎌倉をすて、国府津奥山に六千余騎をひきいてこもった。

 国府津奥山は、現在の世附山中を中心とした西丹沢で、十数里に亘る深山にしてその間、人家なく糧食つきて散り散りになりたりと「太平記」にある。

  新編相模風土記の世附村の項に「白旗社、天模魔王社両社ともに村民、私に祀る所にしてこの両社を足沢権現と称す」とある。白旗社は、諸方に見られる源氏の社であり、世附川本流をはさんでこれに南面する天摸魔王社は、昭和の初期小田原の和田某が後醍醐天皇の御陵であると信じ、十数年に亘り発堀している。

しかし、この地に天皇が見えたという記録はない。しかし、新田氏がこの地にのがれたとき、南朝方の何人かが共に潜行し土着した事はあり得るであろう。

 後醍醐天皇の皇子後村上天皇の御製に「我がすえの代々に忘るな足柄や、はこねの雪をわけし心を」というのがあり、その第一皇子である寛成親王の都留郡山中御所潜行記録のうちに、山中御所は、東は松田・河村の吉野朝方護り南は葛山・大森氏等にて防備せられ、潜行地として充分の防禦は備わりたるなりとあり、世附山中足沢(現在の芦沢→現在の悪沢)が想像される。

 寛成親王は、のちの長慶天皇であり、異母弟で南朝最後の天皇、後亀山天皇との仲に不和を生じたとき、のがれて再びこの山中に向われたと思われる。

  即ち旧山中湖村、上の原ふじ塚は長慶天皇の御陵であると伝えられている。  世附百万遍念仏は、後醍醐天皇の勅願寺である京都の智恩寺の百万遍念仏より古く、念仏宗以前の山岳宗教の呪法であると考証されているが、南朝と山伏とは極めて深い関係にあり、南朝の遺臣が智恩寺型をも取り入れ、現在の形にして伝承されたと見るのは、当らないであろうか。

  芦沢からは細身のソリ刀で公卿刀と思われるものが出土しているが、いまだ西丹沢と吉野朝との関係についての決定的な資料が無くなお今後の調査研究 に期待したい。