地蔵尊祠
その5 中間まとめ
その6 関東森林管理局 東京神奈川森林管理署(平塚営林署)
その7 昔大又に住んで居られた方にお話をお聞きしました。
その8 T先輩の西丹沢山行記録
その9 「地蔵平の女の子」
その10 大又部落民家の写真
「峠のむこうへ」さんからお知らせ頂き、「山北町史」「丹沢・桂秋山域の山の神々」等の資料から、地蔵平を調べていくうちに、地蔵平や世附川周辺のことが、おぼろげながら分かりました。(今頃分かったのかと言われそうですが)
誤りもあるかもしれませんが、今の時点で地蔵平のことをまとめてみました。
うまく書けませんが以下のようです。
地蔵平は、武田信玄の時代から、さかせ古道の中間に位置し、何時ごろか分かりませんが、山で自給自足する人が住んでいました。
明治の終わり頃から、世附川の流域の国有林(帝室御料林)事業が始まり、伐採や炭焼きに従事する人を、富山、静岡、山梨等から集め、地蔵平に集落ができ、その子弟のために分教場を出来た。
大正時代に、大震災や水害で山が崩壊し荒れ、それを復旧するために、治山事業も始まり、水害で全滅した地蔵平にも、また人が住むようになった。
大正末期から昭和初期にかけて木材の生産がピークを向かえ、森林軌道が布設され、最初は馬で引いていた軌道が、後にガソリン軌道となった。
大滝沢周辺でも県の製炭事業が行われ、大滝沢にも分教場があった時代もあり、大又沢流域だけでも200戸が住んでいた。
仕事の場所が地蔵平から水ノ木周辺に移り、拠点、人、分教場も、地蔵平から水ノ木に移動し、水ノ木の部落が盛隆した。
大又沢流域の部落は変革期を向かえ、大又沢に残った人は、仕事場や分教場が水ノ木、中学は大仏と大変不便な生活をした人もあり、大又に残った人には、町から山を下りるようにとの勧めもあり転居し、地蔵平に人が居なくなった。
地蔵平(大又部落)は、国有林事業により大きく左右された、部落でした。
11月26日(土)に、大又部落に住んでいた方に、当時のお話をお聞ききする約束をしておりましたが、
私の仕事の都合で延期となりました。
仕事が、一段落したら再度日程を調整し訪問する予定です。
その7では、そのお話をご報告する予定です。どんなことが分かるか楽しみです。
学校の位置は、是非確認したいです。
参考図書 山北町史 別編 民俗 「大又沢の消長」
丹沢・桂秋山域の山の神々 大又沢の山神 大又沢
特に「大又沢の消長」は、6項目の分類「部落の形成」「大又のくらし」「大又沢の祭祀行事」「分校の設立」「部落の消滅」「部落の消滅後」、10ページにわたり地蔵平の詳しい歴史が書かれており、知りたいことがすべて含まれておりました。興味のある方は図書館でごらんください。 (鎌倉中央図書館)
今日は、4月に会社分割法に基づき分割された私の会社の初めての創立記念日で休みでした。
午後からは、どうしても年内にやらなければならない事があるので、午前中に平塚の営林署で林班図(第2次国有林野施業実施計画図)を購入してきました。購入したのは2枚(世附と丹沢)で、担当者(業務課経営係)の方は、お茶まで出して頂き、とても親切に対応してくれました。
図面には、林種の細分・林相・林齢・班境界・林道・作業道・歩道などの情報が書かれています。購入した目的は、歩道です。
地蔵平から富士見峠への2本の道のうち、古いガイドブックで紹介されている沢沿いの道の位置が分かりませんでしたが、「富士見歩道」として書かれていました。その他多くの歩道が書かれていますが、購入時の注意事項として、今は荒れていて歩けない歩道もあるとのことでした。
ついでに、担当者の方に、大又部落と水の木部落の歴史を調べたいので、資料はないかとお聞きしたところ、「帝室御料林100年史」「関東森林管理局50年史」を見せてくれました。全国や関東地方の国有林について広く書かれたもので、世附(大又部落と水の木部落)に関しスポット的に書かれたものはありませんでした。世附森林軌道の項はありましたが、山北町史に書かれている内容と同じものでした。しかし、法行林道にも軌道が、800メートル布設されていたとありました。
その5で地蔵平は、国有林事業に大きく左右された、部落と書きました。世附の林業事業の歴史がわかれば地蔵平の歴史が判明すると思ったのですが残念でした。
昨年末に、大又部落に住んでいた方にお会いして、お話を聞くと予告し半年が過ぎてしまいました。2月にお会いしてから、お聞した事をまとめてそれを送
付し、UPするまでに長い時間を要しました。大変遅くなってしまったことをお詫びいたします。
今般、お話をお聞きした方は、小学校6年生まで大又に住み、分教場で勉強された方です。高等小学校に進学するためには三保の本校まで通学しなければならないので、静岡の親戚に下宿し、そこから高等小学校に通ったとのことです。
その後は就職のため大又を出ましたが、ご両親は高齢になるまで大又で生活されていたそうです。
1、生活
現在の地蔵平
大又部落に住んでいた方々の仕事は、国有林の伐採等の山仕事と炭焼きが主ですが、ケヤキで大鼓の胴や餅つきの臼、トチの木でねり鉢を作っている、「木地師」と言われている家も2軒ありました。また、ケヤキで木製電柱の腕木を作っていた木挽の方もいました。
それぞれの出身地は、山梨県・石川県・富山県・茨城県、近隣では、三保・清水(山北)・御殿場で農家の次男や三男の方が多かったそうです。
山は国有林なので、炭焼きの場合の収入は山歩合(歩合制)で、1俵炭を焼くといくらという賃金で、けして楽な暮らしでなかったようです。大又から下流(ヘタガリ)に移転した後は立木を買って、それを炭焼きして売ってからの方が生活が楽になったそうです。
お話しを聞いた方のご両親は、法行沢や織戸峠の周辺で炭焼きをしており、居小屋を建てそこに住んで炭を焼いていたため、両親が山に入っている間は、大又ではお姉さんが中心となり兄弟7人で協力して生活をしていました。
大又にあった民家の建物で、大工さんが建築した家は2棟しかなく、多くの家は掘立て小屋でした。小屋は大又部落の方々が協力して建て
たそうです。建て方は、柱となる木をそのまま穴を掘って立て、外壁は板張りで、見えない部分はスズ竹やカヤでした。入口を入ると土間で、家の中がすべて見えるワンルームの広い建物でした。
民家の位置は小学校の先(現在は広場)道路の上側と下側にありました。
部落の方々は家族のように仲が良く、戸締りをしている家は一軒も無く、それでも泥棒に入られた家は一軒もありませんでした。 また、火事が発生したこともありませんでした。
台風で水が出るのが一番こわかったそうです。大雨が降ると流木でダムが出来、それが崩壊すると鉄砲水となって部落をおそってくることがありました。
山で働いている人は、皆器用で森林軌道の橋や伐採した木を運ぶ「船」といわれるそりを走らす「木道」も自分たちで造りました。
森林軌道が出来る前は、馬の背に炭俵6俵を載せて、世附峠を越え駿河小山まで下していました。
軌道が出来てからは、トロッコに木地屋さんが作った太鼓胴やスズ竹、炭俵、材木を載せて惰性で浅瀬に下ります。ガソリン軌道になる前は
、帰りは馬がトロッコを引いて大又まで戻りますが、その馬を浅瀬まで連れて行くことが子供たちの小遣いかせぎで、1回行くと10銭もら
たそうです。また、馬が引くトロッコに乗って帰ってくるのも楽しみでした。
ガソリン軌道になってからは、浅瀬から大又までおおよそ30分で上がり、歩くと1時間30分かかったとのことです。
電気が引かれたのは、その方が小学校生になってからで、それまではランプの生活でした。電話も同時期位に引かれ、営林署の各事務所(浅瀬・水ノ木・法行・大又)をつないだ電話です。1回のチンが浅瀬、チン・チンが水ノ木というようなものでした。
沼津の魚の行商が、駿河小山で降り世附峠を越えて干物などを売りに来ました。女の行商でその日のうちに帰っていきました。また、肉屋も
来ました。小さいですが大又にも雑貨を扱うお店がありました。軌道が出来てからは大きな品物も入って来るようになりました。
川にはヤマメやカジカがいて、カジカは、夕立で水が出ると川岸に集まるため、箕で沢山とれました。カジカは串焼きして食べると美味しい
そうです。山には、鹿、猪、ウサギ、山鳩、雉がいましたので、魚や肉にはさほど困りませんでした。
ウサギを罠で取るには、通り道に針金で輪を作って仕掛けを固定します。ウサギはその穴に首を突っ込みます。
熊も罠で取れます。通り道に穴を掘り、針金で輪を作って埋めます。その輪を木でバネを作ってその木に止めます。その穴に熊が足を入れると針金が閉まり、クマは手を上げた姿でなります。そこを鉄砲で仕留めます。
鹿は一定の場所を周回する習性があるので、通り道で鉄砲を持って待ち伏せしますがなかなか取れません。鹿が取れた時には部落中に肉を分けます。熊の肉は黒くて美味しくありませんが、鹿の肉は美味しいようです。山の神の祭りの前には猟に出て、取った肉でご馳走を作りました。
2、水ノ木部落と大滝沢部落
水ノ木にも部落があり、10〜15人が一組となって、1棟の家に住んでいました。(宿泊所のような場所) また、分教場があった時代もありました。
大滝沢周辺は県有林で、大又同様に炭焼きに従事する部落がありました。3〜4家族で一組となってやはり1棟の建物に住んでいました。場所は東電の取水口の少し上と、もっと上流に家がありました。(たぶん避難小屋付近)
大滝沢にも分教場があり、15人位の生徒がいた時代もあり、その前は大又分教場まで5〜6人が通学していましたが、山越えの通学のため雨や雪が降ると大滝沢の生徒はお休みでした。
3、大又分教場
震災慰霊碑
大又沢分教場は、震災慰霊碑の北側にあり、1〜4年生の低学年と5・6年の高学年と分かれた複式学級でした。教室の続きに教員宿舎があり、教室の前が運動場でした。
先生は2人で、男の先生と若い女の先生で、女の先生は山の暮らしを嫌がって何人も交替しましたが、男の先生は分教場の方が気楽でいいと言っておられました。
学校では勉強以外にも、山に罠を仕掛けたり、魚を取る「モジリ」を作りました。
4、山の神の祭り
大又澤 山の神
山の神の祭りは、正月、5月、9月のそれぞれ17日で、駿河小山から神主さんが来て祝詞をあげました。祭りの3日間は、夫々が夫々の家をまわり濁酒をのみました。濁酒の味は家によっては異なり、それがまた楽しみの1つでもありました。
祭りには露店が2軒でました。一軒は田中屋で、荷物は担いで来るので、露店は小さなものでしたが、子供たちは祭りを大変楽しみにしておりました。
正月・お盆の休みはそれぞれ10日間位あり、帰省する家もありました。
また、部落に出征兵士があると、部落中で山の神に集まり送り出しました。
5、地蔵尊
地蔵尊
その方が住んでいた時は、地蔵尊はオバケ沢とセギノ沢の合流地点からセギノ沢に寄った高台(マルサン平)にありました。(今の場所に移転したのは、昭和33年)
地蔵尊の祭りは、8月24日でその年に男の子が生れた家はぶどう酒1升、女の子が生まれた家は5合を寄付して、女の人が中心に集まり飲んだり食べたりしてお祝いしていました。
6、お産や病気
お産は部落の年配の女性が中心となって協力しますが、部落で手に負えない場合は、駿河小山にある「ロクゴウ院」の医者に来て貰います。病人が出た場合は、子供なら男2人で背負って世附峠を越えて駿河小山の病院につれて行きました。
部落人は薬草の知識が豊富で、傷にはキワダやマムシの焼酎漬け、かぶれにもマムシの焼酎漬けが良く効きました。蛇の肝は干して、腹が痛い時に飲みました。
山にはダニが沢山いて、ダニが血を吸うと大豆くらいの大きさになって、取ると口が残りますが、煙管のキザミタバコを付けると取れました
。大又は、夏はすごしやすいですが、冬は寒くて生活するには大変です。
Sさんには、身勝手なお願いでご迷惑をおかけいたしました。また、長時間お話を聞かせていただきありがとうございました。また、事前にご親戚から資料まで取り寄せていただき大変参考になりました。
今回は、直接お話をお聞きしたことで、本から得られる知識と違い生活を感じることができました。
7、感想
お話をお聞きしたぐらいで、よそ者がわかった様なことは言えませんが、山深い大又で生活するために、部落の方々は助け合い協力する強いつながりを持っておられたと感じました。
S-OKさんは、「誰も知らない丹沢」のコラム「地蔵平の女の子」の中で、昭和34年秋に菰釣山に登るため、地蔵平にテントを張ったH・Tさんが、地元の小学6年の女の子と交わした素朴な会話や、その女の子を呼びに来たお母さんが、お風呂に入らないかと言ってくれた、心温まる話を紹介され、今は人が住まなくなった地蔵平ではあるが、訪れると人の温もりを感じると書いておられます。
私も地蔵平に行って、赤いちゃんちゃんこに包まれた地蔵尊を見て、昔住んでいた方と地蔵尊の深い繋がりを感じ、それから地蔵平に興味を持ちました。
今回話をお聞きして、「助け合いのやさしい心」があったことを感じました。
地蔵平については、ネタ切れの感がありますが、また何か掘り出してUPしていきます。
水ノ木の道標(織戸峠へ)(昭和42年)
会社山岳部の先輩Tさんは、クラブの草分け的存在です。
団塊世代で、日本百名山がブームになる前から、100山完登を目指しておりました。
定年後すぐに100番目の宮之浦岳をもって完登しました。
また、Tさんは西丹沢の檜洞丸が大好きで、今は無い「県立箒沢山の家」に泊まり、通いつめた大の「洞ファン」でもあります。
そのTさんに、「地蔵平に行ったことありますか?」と聞いたところ、富士見峠・織戸峠にも行ったとのことでした。
「地蔵平の写真はありませんか?」と尋ねたら探して見るとのことで、結果、地蔵平に2回、水ノ木に2回行った記録と写真を貸していただきましたので、Tさんにご協力頂き記録を書かせて頂きます。しかし、残念ながら大又(地蔵平)の写真はありませんでした。
その1 地蔵平〜富士見峠〜織戸峠〜水ノ木
1、日時 昭和41年11月23日 晴れ 日帰り 単独 写真無し
2、コース 新松田〜細川橋〜二本杉峠〜地蔵平〜富士見峠〜織戸峠〜水ノ木
3、感想
今日は、今までとは大分感じが違う山登りというより山歩であった。
上ノ原から二本杉峠へ登り、地蔵平に下る、また富士見峠へ登る。そして法行沢に下って織戸峠に登り水ノ木に下りた。
久しぶりに見る西丹沢からの富士山はやっぱりかっこいいなー・・・。
今日は山の中では一人も人に会わなかった。
帰りは水ノ木から車で横浜まで乗せてもらった。長い間にはいろいろあるなー。
途中道がすごく荒れていて道標等ほとんど無し、
その2 大室山・畦ヶ丸・菰釣山
森林軌道のレールが残る林道(昭和42年)
1、日 時 昭和42年12月16日〜18日 2泊3日 晴れ 5名
2、コース
16日 新松田〜中川温泉〜箒沢山の家(幕営)
17日 用木沢出会〜犬越路〜大室山〜加入道〜畦ヶ丸避難小屋(泊り)
18日 畦ヶ丸〜城ヶ尾峠〜菰釣山〜水ノ木沢〜水ノ木〜浅瀬〜世附
3、感 想
大分以前から登りたいと思っていた菰釣山だが、やっと登ることができた。雪が深いのと久しぶりの重いサックできつかった。
このコースに桧洞が入れば丹沢のいい所をいっぺんにやってしまうことができるいいコースだ。
天幕と避難小屋利用の山旅も又いいね・・・。 菰釣山からの富士山と山中湖の景色は最高だ。
今年の29回の山行のうち、トップ10に入る山だった。
菰釣山から山中湖平野へ下る予定が、コースを間違え水ノ木沢に下ってしまいエラク難行した。
水ノ木には薄暗くなる時間に着き、浅瀬の最終バスに乗れずトラックに来てもらい谷峨駅から帰る。
その3 畦ヶ丸・地蔵平
1、日 時 昭和46年12月18日〜19日 1泊2日 晴れ 3名
2、コース 18日 新松田〜大滝沢〜大滝峠〜畦ヶ丸避難小屋(泊)
19日 畦ヶ丸〜城ヶ尾峠〜地蔵平〜二本杉峠〜細川橋〜中川温泉〜新松田
3、感 想
畦ヶ丸避難小屋に、汚い薄気味悪いやつが一人泊まっていて、何となく夜眠れ無かった。
その9 「地蔵平の女の子」
地蔵平(大又部落)にまつわる小さな物語「地蔵平の女の子」は、「誰も知らない丹沢」(岡澤重男著・兜乱l社刊)のコラム書かれております。
著者の岡澤さんは、山の人気サイト「ようこそ山へ」を管理するs-okさん(ソークではありません)です。
風人社の「Oさん」は、HP「ようこそ山へ」の中から西丹沢でもあまり知られていない世附川流域の山々を紹介した「誰も知らない丹沢」を企画された風人社の代表です。
この物語は、コラムに詳しく書かれていますが、大筋は下記のようです。
昭和34年秋のこと、湘南地方に住んでいる当時高校2年の「HTさん」は、山岳部の仲間2人と当時丹沢でも秘境と言われていた「菰釣山」へ登るべく、中川温泉から二本杉峠を越え地蔵平(大又部落)の林の中に、米軍放出のテントを張りました。
テントに一番近い家に住む、当時小学6年生の「地蔵平の女の子」の「T子さん」は近所の子供たちと、ものめずらしいテントを見に来ました。
「HTさん」はちょっと洒落たつもりでビスケットと紅茶を入れて、その子供たちとおしゃべりをしました。
夕方になり「T子さん」を迎えに来たお母さんは、「HTさん」たちに「よかったらお風呂にどうぞ」言ってくれました。
別れ際、子供たちの中で「可愛く」しっかりした「T子さん」は、明日三保の本校で運動会があるので「見に来て」と誘ってくれましたが、「明日は山に登るから・・・・」と答えました。
翌日は、「菰釣山」に登るべく対岸の登山道をさがしましたが、見つからずやむなく富士見峠・織戸峠を越えて水ノ木まで歩きました。
家に帰った「HTさん」は、まだ海を見たことがないと言っていた「T子さん」へ、七里ヶ浜や鵠沼海岸で拾った貝殻を送りました。その後「HTさん」は、大学の合宿で大又部落を訪れましたが、「女の子」どころか人が住んでいない大又部落となっていました。
40数年が経過し、HTさんは「地蔵平の思い出」を「s-okさん」にメールしました。それがコラムになりました。
その後、「s-okさん」の「地蔵平の女の子」探しが始まり、私も協力させて頂き、T子さんが見つかり関係者が集まり、48年ぶりの地蔵平での再会が実現いたしました。
大又部落は、昭和35年以降「大又分校の廃校」「森林軌道の撤去」「住民の移住」と廃村に向かいましたが、今でも、ここを訪れると「地蔵尊」「山ノ神」が当時お住まいの方々により手厚く信仰されております。
いまでも地蔵平を訪れると「人のぬくもり」を感じます。
それぞれ散ってしまった大又部落の方々は、厳しかったが助け会い楽しかった昔の生活を懐かしんでおられるのでしょうか?
48年ぶりの同じ場所での再会、これもきっと「お地蔵様」の導きのおかげであったと思います。
日 時 4月15日(日)
場 所 地蔵平(旧大又部落)の広場
参加者 HTさん・T子さん・s-okさん・Oさん・M−Kさん
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その10 大又部落民家の写真
是非見たいと思っていた大又部落の民家の写真です。
民家の位置は、今の広場です。
撮影場所は、大又沢の右岸からのようで森林軌道が沢を渡っています。旧版地形図(25000分の1「中川」昭和32年3月30日発行)(地蔵平1その1)には、軌道は分校の手前で止まっていますが、写真では対岸まで続いています。
以前大又部落に住んでいた方は、「山で働いている人は、皆器用で森林軌道の橋や伐採した木を運ぶ「船」といわれるそりを走らす「木道」も自分たちで造った」と話しておりました。
がっちりと組まれたこの橋梁も、部落の方々が造られたものでしょうか?
これで大又部落の大方の形がわかったような気がします。
分校や営林署休泊所・治山事務所・人夫長屋の写真は、奥野幸道著「丹沢今昔」地蔵平の項にありますので、ご参照ください。分校は、写真の右側の木のさらに右側のようです。
写真を提供して頂いた方のお名前は公表できませんが、貴重な写真を頂き厚く感謝申し上げます。