現在の地蔵平
西丹沢世附川の支流大又沢の上流に、広く開けた地蔵平(大又は地元の呼び名・地蔵平は一般的な地名で同じ場所です)があります。今は荒れた草原ですが、以前は大又部落がありましたが、昭和35年に浅瀬方面に全部転居し廃村となりました。
地蔵平には、三保小学校の分校が大正12年から昭和35年3月に廃校になるまであったそうです。
世附川沿いには、黒部渓谷鉄道のような材木や炭を運び出す森林軌道2路線があり、浅瀬を基点とし昭和9年に地蔵平までの7,234mが開通し、昭和13年には水ノ木線7,898mが開通、三保分校の廃校と同時期までは活躍しましたが、昭和41年に森林軌道が撤去され現在の林道となったそうです。地蔵平は大又線の終点でした。
また、地蔵平は、武田信玄が北條攻めに使った、道志村から三ヶ瀬川に沿って城ケ尾峠を越え、二本杉峠と経て中川温泉に出る「さかせ古道」が通過しておりましたが、今は一部が廃道となっています。
地蔵平の近くには、武田信玄が宿陣した「信玄平」や将兵が米をといだ水を流したという白水沢などの地名が残っています。
人が住まなくなった地蔵平には、今でも旧大又部落の方によって護られている、神社や地名の由来のお地蔵様が寂しくたたずんでいます。今でも赤いちゃんちゃんこを着たお地蔵様をみて、昔の暮らしを調べてみたくなりました。
今後少しずつ地蔵平のことを調べて行きます。
その1 国土地理院旧版25000分の1の地形図にみる部落の位置
その2 部落の位置
その3 分校の位置
その4 三保村大又澤分教場教員の増員申請(昭和16年5月)
屏風岩山に行った後から年齢から来る腰痛が出て、山はひかえているため、その間に地蔵平のことを調べてみようと思い、2005年10月14日(金)休みを取り東京九段の国土地理院関東地方測量部調査課成果係で、旧版地図の閲覧と謄本交付の申請をしてきました。
国土地理院では11時から昼休みを挟み16時までパソコン画面で丹沢の旧版地形図を閲覧し、その中から各年代の地形図を12枚購入しました。明治25年作成の中川村・山伏峠や塔嶽に孫佛岩の出ている大山旧版地図も購入しました。
地図好きの私としては、小田急線の無い時代の秦野や丹沢湖が出来る前の三保や神縄の古い地図を見ているとあったという間に時間が過ぎてしまいました。おかげで次の日また腰痛が悪化してしまいました。
s−okさんのHPに刺激され私も古い生活道に興味を持ちました。大山の旧版地図には、ヤビツ峠からイタツミ尾根から大山への道は無く、諸戸から大山に登る道(金毘羅尾根)が載っています。今は寂しい道ですが、歴史があることを感じました。
そんな訳で、地蔵平の各年代2枚の25000分の1地形図を拡大してみました。三保分校を示す「文」の記号や住宅の位置がおおよそ分かります。
旧版地形図 25000分の1 「中川」 昭和7年12月28日発行 昭和4年測量 約2倍
旧版地形図 25000分の1 「中川」 昭和32年3月30日発行 昭和4年測量 約2倍
中央が分校、分校の下側は営林署関係の建物か?
上中央に続く道は、 城ケ尾峠へ(さかせ古道)
上右側に続く道は、大滝峠へ
左に続く道は、富士見峠へ
右に続く道は、二本杉峠へ(さかせ古道)
下に続くのは、森林軌道(中央は終点)
「丹沢今昔」の本にある地蔵平(昭和29年)分校の写真や現地の大震災慰霊碑周辺の
石垣から、慰霊碑の周辺に分校があったことが想像できますが、今後現地を調査をしてみます。
10月21日(金)母を病院に連れて行くため年休を取り、午後、茅ケ崎市図書館へ山ノ神様がCDを返しに行くと言うので、一緒について行きました。ついでに地蔵平のことを調べていたら、下記の部落の構成図が出て来ました。(足柄乃文化 12号 山北町地方史研究会1980年6月)
部落の名前は、地蔵平ではなく、「大又」で、昭和35年に浅瀬方面に全部転居しました。
部落構成図は、大又に住んでいた人に聞いて作成したようです。4番雁丸さん・6番山本さん・8番白壁さんは、40年あまり長く居住し、その他の方は、戦後居住した人です。
大又沢の構成図(旧跡)
1、人夫長屋
2、営林署休泊所
3、治山事務所
4、民家(雁丸さん)
5、民家(鈴木さん)
6、民家(山本さん)
7、民家(遠藤さん)
8、民家(白壁さん)
9、民家(早川さん)
10、民家(山崎さん)
11、民家(野崎さん)
文は、分校
学校(三保小学校の分校)は、大正12年から昭和35年まであり、生徒数は最高の時で40名近くいたこともあったようです。
お地蔵さんは以前、杉ノ沢(セギノ沢?)とオバケ沢の合流点に近いところあり、昭和33年に橋の南側に移したそうです。
大又部落は、大正9年8月3日に豪雨に見舞われ全滅したことがあるそうです。地蔵平にある遭難者精魂碑は、この時の災害慰霊碑かもしれません。落合にある落合橋近くに、この時の災害記念碑があるそうです。
「丹沢今昔」の本にある地蔵平(昭和29年)分校の写真にある、左の大きな建物は人夫長屋、手前の建物は営林署休泊所か治山事務所でしょうか。
平成17年11月3日(木)中川温泉上の原から二本杉峠を越えて地蔵平に下り、地蔵平周辺を2時間程うろうろしました。
「旧版地形図」、「足柄の文化部落の構成図」、「丹沢今昔の地蔵平の写真」をもって、分校、人夫長屋、営林署休泊所などの建物の位置を確認するため歩き周ったが、結果は、分校や民家等位置は分かりませんでした。
しかし、大震災慰霊碑周辺が営林署関係の建物や分校を中心とした大又部落の中心地であることは間違いありません。
現在の広場にあったと推定される、大又部落の区長であった雁丸さん他の民家の位置は、広場北側の山裾に沿ってあったことが想像されましが、その痕跡を見つけることはできませんでした。
今回歩き回り不明な点がいくつか出てきました。
@「丹沢今昔の地蔵平の写真」では、分校は写真中央とあります。L字の建物でしょうか?
A「足柄の文化 部落の構成図」は、北側に学校を示す「文」のマークがあり、「丹沢今昔の地蔵平」写真は中央で相違しています。
B浅瀬ゲートを管理しておられた湯山さん(後日春さんからお名前をお知らせいただきました)に、「丹沢今昔の地蔵平の写真」を見ていただき、位置を聞いたところ写真中央のL字建物が分校とのことでした。(現地と相違する)
「丹沢今昔の地蔵平の写真」では、どこに大震災慰霊碑があるか分かりません。写真を虫眼鏡で拡大したら、人夫長屋の北側の延長線にこんもりした木があり、それらしきものがあります。
もしそうであれば、現地と一致しています。慰霊碑の前(南側)には、人夫長屋があった想定できる敷地跡があります。しかし、現地には慰霊碑の石積と平行し東西に石積が伸びており、写真には建物があり現地と相違しています。
@慰霊碑は2本あり、1本は「大震災慰霊碑」です、日付は読めませんが関東大震災のものだと思われます。もう1本は「遭難者精魂碑」で、大正9年8月3日と書かれていました。大又が豪雨に見舞われ全滅した時の慰霊碑でした(その2部落の位置参照)
A湯山さんからお聞きした事。
* 地蔵尊は、川に流れてきた子供を供養したものである。
* 大又には、27世帯もあった。
* 分校には、先生が2人も赴任していた。
* 森林軌道が土場(広場)まで伸びていた。
* 昔は、今の林野庁にあたる役所が景気がよく、盛んに木を伐採し運び出していたこと。
* 大又の区長は雁丸さんであったこと。
* 慰霊碑は分校のそばにあったこと。
* 今でも地蔵尊のお参りに旧大又の方がたびたび訪れること。
*神社は、山の神様であること。
今回話をお聞きした湯山さんには、禁漁日を1日間違え入渓しようとして怒られたことがあります。「こら何処に行くんだ」「釣りです」「昨日までだ」「ウソー」。
漁協の看板には、禁漁期間は、10月15日から2月末と書いてあります。 10月15日でした。あわて者の私は、会社を休み最後の釣りを楽しむ予定が、釣りの靴(ウエデングシューズ)を履いての山歩きとなりました。怖いイメージのあった湯山さんで、十分に大又部落のことが聞けませんでしたが、最後はやさしい人であることが分かりました。
地蔵尊のそばに、地蔵尊新築碑があります、祠は平成8年に新築され、その時の寄付金とお名前が刻まれております。ほとんどが女性のお名前です。
HP「峠のむこうへ」・「西丹沢の奥深き峠・山神峠・織戸峠・富士見峠」の項に、峠さんが書かれているように、「地蔵は子育て地蔵で、祀った以後はお産で亡くなる人はいなくなったという」また、後産がおりないときは、夜中でも提灯を持ってお地蔵さんの腹をさすりに行くと、帰ってくるまでに不思議とノチがおりたという。」お地蔵様は、女性のお味方でした。
山歩きの安全は「山の神様」にはお願いしましょう。
今回は、新しい発見はありませんでしたが、今後も地蔵尊と地元の方々のつながりなど、少しずつ調べて行きます。
昭和46年発行古いガイドブックに載っている地蔵平の略図
人夫長屋があったと思われる場所(石積み下側)
いつもきれいに飾られ、清掃もされている地蔵尊。
(掃除道具や線香が置かれており、頻繁にお参りに来る方がいるようだ)
その1では、「大又部落には、三保小学校の分校が大正12年から昭和35年3月に廃校になるまであった」と書きましたが、山北町史には、山仕事が地蔵平周辺から、水ノ木周辺に移動すると、人、分校も移転し、水の木が盛隆したと書かれています。
分教場の歴史と地蔵平の盛衰にはつながりがありそうです。
山北町史にある表題の申請書は下記のとおりです。読みにくいですが、戦時中の燃料が無い時代に、炭焼き事業が国策として行われそれにつれ、大又の生活や分教場が変化したことが、読み取れます。
今鹿が遊んでいる地蔵平に、昔40名も小学生が居たとは信じられません。
三保村長から神奈川県知事への増員申請(添付意見書は、三保国民学校校長・大又澤区長・大又澤学務委員・神奈川県林務課長)
三発283号
昭和16年5月25日
神奈川県足柄上郡三保村長 佐藤伴次郎 印
神奈川県知事 松村光麿殿
三保村三保国民学校級外教員(大又澤分教場補助教員)増員許可申請
今般、部内大又澤分教場補助教員1名増員ノ必要相生ジ候ニ付テハ、特別ノ御詮議ノ上,御許可相成度、別紙関係書類ヲ相添エ此段申請候也。
意見書
大又澤分教場ハ、従来ハ尋常科第1学年ヨリ尋常科第6学年マデ単級組織ニシテ、1名ノ担任教員ヲシテ教育ヲ実施致し候、然ルニ、今回学制ノ改革ヲ見、国民学校令ヲ実施セラルルニ及ビ、1教員ニシテ40分間ニ全学年ニ亘リテ教授ヲ行フハ実験・実測ノ不可能ナルハ勿論、科学心ノ培養及ビ躾ノ徹底、個性ノ助長等、教授並ニ訓練上遺憾ノ点少カラズ、完全ナル国民学校令ノ実施ヲ期シ難ク存ゼラレ候、大又澤部落ノ父兄中ニハ此ノ点ヲ憂慮スルノ余、他府県ナイシハ県下ノ他町村ニ縁故ヲ辿りテ児童ノ教育ヲ托スル者モ有之候、特ニ、国策上ノ一障害タラントスル実情ニ有之候、依ッテ此ノ際特別御詮議ノ上、級外補助教員1名、是非トモ増員御承認相成度、御願候也。
備考
1、分教場ノ位置
本校ヨリ千米ヲ越ヘル山岳地帯ヲ含ム12.2キロメートルノ距離ニ在り、大又澤分教場担任教員欠勤(病気)ノ時ハ補欠モ不能ニシテ、児童ノ教育ハ中止トナル。
2、現在ノ大又澤分教場(単級)児童数、
初等科第一学年 6名
初等科第ニ学年 3名
初等科第三学年 2名
初等科第四学年 4名
初等科第五学年 2名
初等科第六学年 3名計20名
3、補助教員ノ増員セラレタル場合ノ児童見込数
複々式(三学級ズツ)ニナル時ハ、大滝澤ニ帰還安住スル村民ノ児童ヲ加ヘテ、40名ニ達セン。
昭和16年4月25日
神奈川県足柄上郡三保村三保国民学校長 本多貞治 印
大又澤区長・大又澤学務委員から三保村長への依頼
昭和16年5月6日
三保村大又澤区長 能澤仙松 印
三保村大又澤学務委員 菊池萬作 印
三保村長 佐藤伴次郎殿
三保国民学校大又澤分教場補助教員増員ニ関スル件
当部落ノ児童ハ大又澤分教場ニ於イテ従来ヨリ教育ヲ受ケ来リタルモ、同分教場ハ初等科第6学年マデノ単級組織ニシテ、1名ノ担任教員ハ、教育ニ従事スルコト多年ニ及ビ、識見高邁ニシテ非凡ナル手腕ヲ有シ、精励恪謹克ク職責ノ完遂ニ力ヲ効サレテ、児童ノ保護者タルモノ斉シク感謝措ク能ハザル所ニ御座候、然リト雖モ、人力ニハ限界アリ、分教場担任教員ノ超人的努力ニモ拘ラズ、従来ヨリ教育上遺憾ノ点アリ、特ニ国民学校制ノ実施セラレタル今日ハ、一層其ノ感ヲ深クセザルヲ得ズ、若シモ現在ノ儘ニ放任スルニ於イテハ、子弟教育ノ上ヨリ当部落ハ早晩離散崩壊スベク、斯クテハ部落民ノ従事シツツアル帝室林野局ノ事業ニモ影響アルベシト被存候。
就イテハ、之ガ対策トシテ何卒、補助教員1名増員方、其ノ筋ニ御申請ノ上、早急ニ実現スル様ニ御尽力被下度、部落民一同協議ノ結果ニ基キ、部落ヲ代表シテ此段御願申上候。
神奈川県林務課長から三保村長への依頼
昭和16年5月6日
林務課長 印
三保村長殿
三保国民学校大又澤分教場補助教員増置ニ関スル件
三保恩賜県有林大滝沢ニ於ケル県行製炭事業ハ昭和14年度ヨリノ継続事業ニ係り、現在製炭関係人夫50名有之、然ルニ、コレガ子弟20名ハ三保村大仏ニ在ル国民学校本校ニ通学スルヨリモ、大又澤分教場ニ通学スルヲ便トスル現状ニ有之、然ルニ、同分教場ハ尋常科6学年迄単級組織ニシテ、1名ノ担任教員ヲシテ教育ヲ実施致居ルヲ以テ、右製炭夫ノ子弟ノ入学スル場合ハ、到底完全ナル教育ヲ為スコト能ハザルモノト認メラレ候ニ付テハ、コノ際補助教員1名増員相成様致度、現状ニ放任スルニ於テハ、子弟教育ヲ慮リ製炭事業ニモ影響致スベク候ニ付イテ、特ニ早急実施方御配慮相煩度候。
(「学童」抄録)(三保支所所蔵・山北町役場所蔵)
山北町史添え書き
「三保小学校大又澤分校は、県有林の経営事業に従事する者あるいは製炭業に従事する者の子弟を教育する施設として、大正7年(1918)1月に開校した。児童数の減少により、同9年9月には閉校したが、翌10年4月に再開した。
教員の増員は、昭和16年6月10日に県知事の許可を受けた。その後、大又澤分校は、昭和34年(1959)の台風15号により校舎が大破し、住民も浅瀬に移転してしまったために、昭和35年3月をもって廃校となった。」
山北町史 史料編 近代 三保小学校の児童調べ 大正13年2月 大又澤分教場
学級数及び毎学級児童学年別人員調(大正12年度)
初等科第一学年 4名
初等科第ニ学年 6名
初等科第三学年 6名
初等科第五学年 2名
初等科第六学年 2名 計20名
学級数及び毎学級児童学年別人員調(大正13年度予定)
初等科第一学年 5名
初等科第ニ学年 4名
初等科第三学年 6名
初等科第四学年 6名
初等科第六学年 2名 計23名