世附森林軌道(写真提供 春さん)
目次
【日 時】 | 2007年4月21日(土) 単独 晴れ・曇り |
【コース】 | 自宅7:30 〜 浅瀬 9:00 〜 水ノ木橋 〜 大棚 〜 水ノ木橋 〜 菰釣橋 〜 樫ノ木橋 〜 樫ノ木林道分岐 (同じ道を戻り) 〜 浅瀬17:00 |
【資 料】 | 〇 旧版2万5千分の1地形図「御正体山」昭和7年発行 〇 山中湖村史 〇 「水ノ木澤から菰釣シ山」・加藤秀夫著(山と渓谷33号昭和9年10月発行) |
【始めに】 | これまでの水ノ木部落の調査は、「山北町史」「山中湖村史」「小山町史」「道志村の村史と言われている道志八里」を調べてみました。 特に「山中湖村史」には、世附山(世附川流域の山)が山中湖畔の「平野・長池部落」の山仕事の場所であったことが多く書かれております。(水ノ木部落研究その3〜6) 水ノ木が所在する「山北町史」には、旧大又部落(地蔵平)については詳しく書かれておりますが、水ノ木部落についての記載はありません。 また、「小山町史」および「道志八里」にも、水ノ木のことは書かれておりませんが、「小山町史」には、森林軌道ができるまでは、御殿場線の駅がある「駿河小山駅」に、山で生産された「材木」や「炭」を馬の背に載せて降ろしていたこともあり、「柳島部落」の項に少し記載がありました。(水ノ木部落研究その8) 今回は、下記の「山中湖村史」に書かれている3ヵ所の「製材所」の跡地を探すため現地を歩きました。 上記資料の他に、今回は、「峠のむこうへ」さんからコピーを頂いた、山と渓谷33号(昭和9年10月発行)「水ノ木澤から菰釣シ山」(加藤秀夫著)という紀行文に、当時の水ノ木の様子が詳しく書かれていますので、それも参考に探してみました。 いつも「峠のむこうへ」からは、資料やアドバイスを頂き、深く感謝申し上げます。 ○「山中湖村史」第3巻第6部「三部落における生活と年中行事・習俗・慣習ならびに部落の組織と規範」より引用 平野部落および長池部落の人々が馬方として入ったところは、地蔵平・法行沢・織戸ノ沢・水ノ木・大棚沢等の地域であったが、接触のあった主な業者は人々の記憶によると、丸三製材所・丸五製板(後に丸共製板と名前を変える)・丸高製板であった。 このうち、丸高製板は、静岡県駿東郡柳島出身の高橋文平という人が明治時代末期からすでに手広く山師をやっていたが、大正時代初期頃に世附山の森林の払下げを受けて、織戸ノ沢と水ノ木の中間へ製材所を作り、下請けさせないで、製材・製炭等を全部一手にやっていた。 最盛期には、二十数世帯、職人を50人ほど使い、長居をさせるために、小学校の分教場を作り、先生を一人おいて、それまで駿東郡柳島・藤曲・小山の小学校に通っていた子供たち二十数人も呼びよせて、父母と一緒に住まわせ、分教場に通わせた。 定款に「バクチをしたら、この山におかない」旨のことが書かれていたと伝えられている。 そのため、当時、影山(世附山)の子供に、「世界で一番偉いのは誰だ」と聞くと、「丸高のオヤジだ」という答えが返って来たというエピソードもある。 丸三製材所は遠州出身の三室某が大正初め頃に水ノ木に製材所を作ったものであると言われている。規模が大きく、水ノ木には飲み屋があったり、商売女も二、三人いて、一つの部落を形成するほどであった。 平野部落の馬方は大部分が丸三製材所の駄賃附けを行なった。 製材の動力は、板の樋で水を運びこみ、その勢いを利用したものである。 その後、少し遅れて、青梅から来た人が丸五製板を、水ノ木より下の金山の下方に作った。 丸共(丸五)は自家水力発電もやり、この動力で製材をした。また、オサノコを使い出したのも世附山では丸共が初めで、一度に10枚以上の板ができることになった。 引用終わり |
カシミール3DとハンディGPSを使用して作成した「GPS軌跡」のページです。軌道が切れたり
飛んだりしていますが、修正してありません。そのような場所は、衛星の電波を受信できない
杉林のような場所です。また、軌道は、1分隔で記録しております。また、画面の大きさに合わせて
縮小していますので、正確な縮尺はわかりませんがおおよそ50000分の1程度です。
この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000
(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平17総使、第87号)
○山と渓谷33号(昭和9年10月発行)「水ノ木澤から菰釣シ山」(加藤秀夫著) 以下一部を引用
加藤秀夫さんが歩かれたコースは、駿河小山を深夜1時に出発し、柳島部落から峰坂峠を越えて広河原に下り、馬印から水ノ木沢を詰めて直接菰釣山に登り、下りは、前ノ岳からモチハギ沢を下り道志村へ出て、そこから、ヤラ尾峠を越えて谷村(都留)まで出る、夜行日帰りすべて歩きという、超ロングコースです。
時代は、昭和9年の春です。
その紀行文に、当時の馬印や水ノ木の様子が詳しく書かれていますので、その紀行文を参考に、当時あった建物跡を探しに行きました。
以下は、「紀行文の紹介」と調べた結果を交互に書いて行きます。
・・・・前段 小山から世附峠の間は省略し、世附峠からの部分を記載・・・・・
一寸休んだばっかりに一時間餘りも寝てしまつた。
此邊から松や檜の植林が現はれ、軈て登りは緩やかとなり赤い愛樹標のある世附峠分岐へ着く、此處は茅戸の低い丘陵が起伏した様な丁度郊外の周囲を見る様な和やかな小景を呈し一息入れるに御誂へ向な處である。
分岐のすぐ右手峰坂沢源頭のケヤキ田に新しく小舎が出来て、小舎を経て澤添ひに降る早道が降ってゐる。
林野局特有の指導標の指すまま尾根を西へ捲く平坦な道の終る處、ベンチが二基と赤い愛樹標が建ってかる。五時。
こゝは西丹澤山塊好個の展望臺で、正面の菰釣シ山を始めとし、怪峯畦ヶ丸山(一、ニ七二米)右手に大荒(八三四米・たぶんミツバ岳周辺)南面の大崩壊が顔を覗かせ、左手火モシ峠(一,〇三〇米)から東にトナノ丸(一,〇〇七米)その北方の東丸(−,○ニニ米)の尖塔など本谷の紛糾が一眸に収められる。
駿州側の茅戸の和やかさに比べ、相州側は青く錆びて山肌を荒々しく剥出しこの峠を境として山相が一變して居る。
降りは始め稍々歩き悪い處もニ、三あつたが直ぐ平常に復し駿州側と違ひ樹木も多く、降るにつれて山櫻や山ツツヂが現れ美しく花を綻ばせ風情を添へてゐた。
降る事三十分で廣河原へ着く、途中に豊富な水場がニケ所程ある。ここは土澤と本谷が落合ふ處で今間は山櫻の満開である。
その閑雅さは限りない。夏だと山百合の大花がこれと代り谷一杯に強い香を満らせる。
この邊りは谷が明るく亦さしたる美景はないが都人士が入り込まないので静かに幕営生活を営むのに良い處でもある。
道は右手へ落合の下手板橋を渡り多少戻り気味にそこから澤添ひに降る浅瀬へと世附道と岐れ高見へ登る様になる。
地圖の道は現在通れない事もないが、土澤の渡りが悪い、亦さして早道でもないから前者を取られた方が良いと思ふ。
檜と杉と程良く植林された道を電話線に添って行くと、本谷の展望の開らける所に亦愛樹標とベンチがある。
中川發電の取入口を眼下に瞰下する邊りに来ると道はぐつと高見に付けられそこから水路監視所の一軒屋は直きである。
いつも愛想の良い御主人から御茶など饗れて一息人れる。
そこから餘り形の良くない、一、〇〇七米トメノ丸(丸尾のとも云ふ)から木谷に入る、
ヤナマクラ澤(丸尾澤)を左手に見る様になると右手より落て来る小棚のある山神澤(ホリ木ノ澤)を渡る。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
山神澤の源頭、山神峠には菊花紋章附古碑(この地方に多い長慶天皇の傳説に関連せられてゐる)のある事で有名で、亦種々書く可き多くの材料を持ってゐるが紙敷の都合上詳細は略するが、古く甲相国境をここに置かれたと云はれこの不自然な境界はしばしば両国の争の的となり問題の山相撲の分屬に就て、日本後記にその裁定の事が出てゐるが、主権は時々変わったらしく論争の終結は弘化四年の事で、以来境界は現在の如く確定した。
これは調べるとなかなか興味深く面白い資料も豊富に残されてゐる。
亦古く甲相の聯路であつたとも傳へ(道の変遷に就ては諸種の説有り)現在の広河原から水ノ木へ至る道はそう古いものではなく、その以前は峰坂峠(柳島峠)と世附峠の中間、アシ澤峠を降りワラ澤を溯り、山神に出て西腹を捲いて行った。
今僅かに俤を止めるのみで全くの廃道となっているがこれを横引横道と云った。
降り口は丸高の下手辺で道が蛇行してついてゐるから織戸、或は折戸と当てられ地名が残って居る譯である(登り戸の反意で降り戸であると云ふ説もある)下流世附との交通もつい最近迄この峠を用ひていた。
・・閑話休題・・
後段に続く
旧版地形図 山伏峠 2万分の1(明治25年)
山神峠の山神
台座には、宝暦二壬申年(1752年)3月吉日と刻まれている。
○横引横道と山神峠
(注)以前から山神峠の山神社が、何故あの場所にあるのだろうかと疑問を持っていましたが、これで疑問解けました。
山神沢から山神峠を越えて、横引横道で水ノ木に出る経路は、明治・大正時代までは歩かれていた山路でもあれば、山神の存在が理解できます。
山神峠は、世附村・駿河小山と水ノ木・平野部落と世附村を結ぶ途上にあり、いつも杣人が手を合わせていたことでありましょう。
加藤秀夫さんも書いておられるように、山神峠は相甲国境紛争において重要な論争地点でありました。
論争の中で平野村(甲州)は、山神社は世附村と共同で奉った山神であり、山神峠が甲州と相州の国境に当ると主張します。
それに対して世附村は、山神の台座には小田原藩新山奉行4名の名前が刻まれており、小田原藩が奉ったもので、国境は、三国峠から菰釣山へ続く尾根上である。
両者の主張は大きく分かれます。
それに対して、平野村側は反論し、新山奉行の名前は紛争が発生してから刻まれたもので、以前にはなかった。
幕府評定所(当時の裁判所)の役人が山神社を検分して、名前は新しく刻まれたものではないと判断し、平野村は負けてしまいます。(それ以外にも判決文には理由が書かれておりますが)
この山神の歴史は古く、台座には宝暦二壬申年(1752年)3月吉日と記されているそうです。
それが今、祠が朽ちかけ傾いております。
山神が山神沢に転げ落ちないうちに、早期の修復が望まれます。
○大棚の発電機
浅瀬を出発時する時に、ゲートのYさんに「水ノ木にあった製材所を調べに行くのですが、製材所はどこにありましたか?」と尋ねてみました。
すると、Yさんは、製材所には機械を動かす電気が必要で、その電気は水力発電で、大棚に下る道の脇にあったとのことでした。
また、Yさんは、「俺はこの年になるまで、世附山で林業の仕事をしており、何処の山には何の木があって、何年位経っているか全部わかっている」とも話してくれました。
大棚
林道脇の道標から大棚に下りて行くと、沢の近くに発電に使ったと思われる小型タービンがありました。
羽根が上から落ちる水を受けて回るようになっており、今も羽根は手でまわすことができます。
ペルトン水車
水量が多く迫力がある大棚を見て、林道に戻る途中で、水を貯める大きなコンクリートで造られた桝があります。
それと接続していたであろう、土に埋まったU字溝もありました。
この桝に水を貯めて、一気に発電機のある場所まで水を落とし発電していたようです。
枡に続くU字溝
水の取入口を確かめるため、U字溝の先を追っていくと、石積の上にU字溝が設置された場所もありました。
しかし、大半の水路は崩れており、取入口は大棚の落下口にありました。
では、ここで発電された電気を使用した製材所はどこにあったのだろうか?
再度発電機の付近を探しましたが、製材所の建物や材料が置けるような平坦な場所はありません。
側溝の行き先は?
再度帰りに、ゲートでYさんにお聞きすると「斜面の途中に平らな場所はなかったか?」といっていました。
しかし、丹念に探しましたが、現在の地形からはとても建物が建つような場所はありませんでした。
Yさんが、林道から大棚に下る道と言っていた場所を、私が聞き違えたかもしれません。
また、製材所の名前を聞くことも忘れました。
水は、大棚の上から引いていた
○「水ノ木澤から菰釣シ山」(加藤秀夫著)の続き
前方に東丸(−、〇二二米)の尖塔を見ながら尾端を措くと大棚澤落合で磧(かわら)へ降りる。
磧の炭竈を左手に見て高見の小道を登る、先を急ぐので大棚は失礼する。
道を歩いてゐても瀧頭を望めるが瀧下へ澤渉って、左岸に添へぼ直きである。
大棚澤に添ふ径路は平野より馬が通ふので良く踏まれ、大棚の右手高く廻って、パラヂマ落合で、パラヂマ径路と岐れ、切通し澤に添ひ、ヒタ登りに登り、火もし峰の北を捲いて切通し(一、〇五一米 吉政峠)へ出るもので平野迄三時間半の行程である。
大棚とまごう本谷の大堰堤を左に間も無く本谷を渡ると馬印で、林野の世附休泊所があり役員が住んでゐる。
広河原から約一時間である。(林野名は大棚東)
本谷を渡ると指導標が有り右はオリト峠に至るオリト径路すぐ前が水ノ木製材所主、高橋文平翁宅、以前あった宏壯な屋敷は半分に縮小して、翁は藤曲に隠居し残って仕事をして居られる藤村さんを御訪ねし舊濶を詫びて一憩する。
藤村さんから菰釣シ山登路に就て、詳しべ教示される。
原案の胸突き八町道やめて長尾登りと決める。竝通馬印迄四時間半もあれば楽である。
七時十分出發する。家の前から少し行って板橋で對岸に越す、この辺りに架せられた板橋は木材が豊富な故か大きな厚い一枚板にへり木を付けたもので仲々豪勢なものである。
メオトノ澤を渡ると十分で、水ノ木澤と金山澤の出合にある丸高の製板所に着く。
こゝは広く伐れ開らかれて、明るい陽が一杯に當り春らしい長閑さを思はせたが、近づくにつれ、先年の火災で僅かに残つ工場の一部と荒れた長屋があり往年の高橋氏の盛大を忍ばせるのである。
すぐ先で金山径路が岐れる、そこから水ノ木澤を渉ると径は杉植林の中を抜ける。
径を横切る細長い瀧や・花崗岩の風壊してザレた所を過ぎ約十分にして、堰堤のある鍋ツリ澤が左手に開ける(図上足柄の柄の字に當る澤)多少砂防はしてあるが未だ青草を充分留めるに至らず、白茶化て薄きたなく、鍋ツリ澤の合流する辺りから、径路はぐつと狭まり割合水量のある小澤を捗ると、谷は急に西に湾曲して、小棚など現はれ清潭を見せる。
径は花崗岩のザレをぐつと高みへ登る、先に一寸大きく思はれた東丸が丘陵化し、今朝早く越して来た不動日影辺りが、顔を見せて来る。對岸は多少の砂防はあるが禿あがつて傷々しい。
澤に堰堤を見ると路は低下して、俗に六十町歩と云われる所(丹澤世附御料地とある、世の字に当る処)に降りる。径はこれで切れるが澤を左手に渉るとすぐ戻る様に蛇行して高見へ出る径がある。
…以下省略…
○水ノ木の地名について、(水ノ木は何処?)
水ノ木の地名は、2万5千分の地形図では、織戸澤の出会い附近が水ノ木になっていますが、同じく「峠のむこうへ」さんから頂いた、昭和15年11月「山と渓谷64号」「丹澤・菰釣山附近」(清水長輝著)の「水ノ木」の項に以下のように書かれていますので、一部引用いたします。
◆水ノ木
「水ノ木とは、はっきりしないが何か桂に似た濶葉蒿木の異名であるようだ。金山澤出会(現菰釣橋)の製材所があった所は、水ノ木落合と呼ばれていた。それが単に水ノ木となり、場所が少し移って地図の水ノ木となったものである。
今の水ノ木は、明治の中頃、川に面して炭釜が八つ並んでいたことから「八つ釜」と呼ばれ、その後、上州の佐藤馬太郎という炭焼が入って、馬の印をつけて炭俵を出したので、「馬印」に変わった。
この名は今でも時々村人の口にのぼる。
昭和13年の秋から浅瀬より軌道が開通しており、水ノ木休泊所の外に「岩田國太郎」・「小野弥六」氏の二軒と人夫小屋が一軒ある。
長い事ここで過した高橋文平翁はもう以前に藤曲へ下ってしまった。
・・・引用終り・・・
御料林で、盛んに森林事業が行われていた時は、金山澤出合(現菰釣橋)の製材所があった場所を「水ノ木」と呼んでいました。
大棚の製材所の調査を終えて、水ノ木橋に戻る途中で、橋の手前から大棚沢と本谷の出合いに下る道があったので下りると、周辺と明らかに違う平坦な場所が、沢に向けて続いておりました。
この周辺が「八つ釜」と呼ばれた場所かも知れないと一人想像しました。
今後は、昔の呼び名に戻して、下記のように呼ぶようにしょうと思います。
馬印・・・・・本谷と織戸澤の出会・本谷と大棚澤の出会附近。
水ノ木・・・・・菰釣橋のある水ノ木澤と金山澤の出会い付近。
現在の馬印は、大きな建物が1棟と2〜3棟の物置がありました。
「林野の世附休泊所に役人が住んでいる」と加藤秀夫さんが書いている建物は、何処にあったかわかりませんが、大きな建物は今でも使用されています。
馬印の建物 今でも使用しているようだ
建物の奥にある急な階段を登ると、山神社があります。
山神を見ているとすぐ近くで、「バン・バンー」と銃声が響きました。
もう、猟期は終了しているので、鹿の特別駆除でしょうか?
馬印の山神社
○馬印の山神
佐藤芝明著「丹澤・桂秋山域の山の神々」から一部を引用
「馬印・本州製紙の山神」
・・・前段略・・・
馬印と水ノ木橋は同じ場所であり、水ノ木沢の沢音が谷風と共に吹上げられ、馬印の所で渦を巻いていた。
水ノ木林道を少し入ると、左手上に、本州製紙の山林宿舎があった。
こぎれいに整理された宿舎の裏手に小路があって、小尾根に通じている。
ここに丸太の鳥居があり、鳥居からは急な勾配の参道となっていて、一気に奥の社に突上げ、荘厳な雰囲気に包まれている。
参道の両側から社の裏まで、ブナ・欅・カエデ・樅・ミズナラ等の大木が聳立し、参道のあちこちにその根を露出している。
社は一坪に満たないこじんまりしたものであるが、よく見ると総欅造りであり、余計な装飾のない代わりに、木組みなど寸分の狂いのない作り方であった。
広大な山林経営をロングレンジのサイクルで行っている本州製紙の社風と言うべきか、経営理念と云うべきものがこの社に現われていた。
社の中には神体を示す木碑が収められていて、その板の上には次のように印されていた。
奉修 大山祗大神(オオヤマズミ)
静かな山神社に立っていた私は、谷を渡って来た「ひよどり」の一声に振返った。
水ノ木沢の対岸にせまる稜線が樹林に見え、そこには座禅でも組みたくなるような澄み切った空間が展開していたのである。
この山神は、ここに鎮座し、本州製紙の山林や山林関係者のみならず、世附川水系の全山林や、この谷に入谷するすべての人々の安全や管理など一切を司っていると確信したのである。
・・・以下略・・・
○製材所について(丸三製材所 か 丸高製板所?)
昼食のため、林道から織戸澤の出会いに下りると、釣り人が食事中でした
「今銃声しませんでしたか?」
「いやいや今のは熊の糞があったからので、熊よけの爆竹を鳴らした」とのことでした。
釣り人たちは、大棚澤と本谷に別れ、水ノ木橋4時集合の約束をして、それぞれの釣り場に分かれて行きました。
本谷と織戸沢の合流点
私は簡単な昼飯を終え、丸高製板所主で世附山の子供たちから「世界で一番えらいと云われていた「丸高のおやじ」が住んでいたという屋敷跡を探しに行きました。
織戸澤と本谷の合流点には、以前織戸峠から下った道があります。
その道は、ここの尾根先端に下りつきます。
本谷と織戸沢の合流点奥にあった
高橋文平翁屋敷跡で発見した屋根の一部
その道に入って少し登った左側に、平坦で奥に長い植林地がありました。
その中をうろうろしていると、一升瓶やバケツ、屋根の上にあったと思われるトタンで出来た「カザリ」がありました。
ここに高橋文平翁の屋敷跡があったことは間違いありません。
下丸の上側の建物が「丸高橋文平翁」屋敷・下が、水ノ木休泊所
上丸の中が製板所?
旧版地図(昭和7年)
昔は水ノ木に向う道は、この屋敷の前を通って本谷左岸にあったようです。(地図参照)
古の建物を想像することは出来ませんが加藤秀夫氏によると「宏壯な屋敷」と表現せれております。
高橋文平翁屋敷跡(生活跡)
さて私は高橋文平翁屋敷跡から林道に戻り、水ノ木澤と金山澤出合い向ました。
菰釣橋が水ノ木澤と金山澤の出合です。
まず、金山澤に沿った左岸の植林地に入って見ると、道路から3m位高い位置に、人工的に造成られたと思われる広い場所がありました。(下の写真)
金山沢と水ノ木澤の出会(橋は菰釣橋)
やはりここも植林地で、木の大きさも同じです。
おおよそ広さは100〜150坪です。
あちこち歩き回りましたが、建物があったことを示す物を探し出すことはできませんでした。
次に反対側の水ノ木澤に沿った、植林地を歩いてみました。(下の写真)
金山沢と水ノ木澤の出会にあつた製板所跡らしき場所
ここは、山すそに沿って、幅10〜20m・長さ70〜100m位、広い平坦地が続いています。
ここでも生活の跡を見つけることができません。
以前batistaさんから頂いたメールには、20年位前までは、建物の基礎が林の中にあったとのことです。
同上
水ノ木周辺には地蔵平のような山の中にぽっかり開けた広い場所はありません。
ここと馬印の地形を比較をすると、こちらの方が平坦地が多く、製材所・貯木場・働く人の住居等多くの建物を建築することが出来そうです。
浅瀬ゲートのYさんは、最盛期には、100名を越える人がここで働いていたと云っておりました。
昔の水ノ木の中心地はここであったようです。
植林地から林道に出ると、反対側の一段低い位置に、二つの大きな石があります。
奥の石の上には馬頭観音・手前には同じく小さな仏像が置かれた墓がありました。
馬頭観音の裏には、建立した人々の名前が刻まれていますが、判読することが出来ません。
山中湖畔の平野や長池部落の人々が、駄賃稼ぎのために使用した馬の供養のために建立したものであると思います。
手前の墓には、大正5年1月6日 長田○○之墓、長田○○建立と書かれておりました。
馬頭観音(奥)と墓(手前)
世附山で没し、なぜ故郷に帰らずここにん眠っているか不明ですが、今でもお参りに来る人がいるらしく、線香立ては新しいものでした。
この墓の仏像は耳が大きく変わった姿をしておられます。
墓には、平野部落に多い苗字「長田」と大正5年没と書かれていた。
○水ノ木の居酒屋
山中湖村史には、
丸三製材所は遠州出身の三室某が大正初め頃に水ノ木に製材所を作ったものであると言われている。
規模が大きく、水ノ木には飲み屋があったり、商売女も二、三人いて、一つの部落を形成するほどであった。
水ノ木の居酒屋もこの周辺にあったことが想像されます。
どんな、居酒屋があったのか覗いて見たいものです。
○金山沢の製材所と鉱山跡
昭和7年の旧版地形図には、金山沢の上流部にもう1ヶ所建物(旧水ノ木部落研究1その2地図)が書かれている場所があります。
今日は、探すことが出来るかどうかわかりませんが、金山沢に沿った林道を樫ノ木林道が分岐する位置まで歩いてみます。
金山沢は、錆びた石が多く沢全体が赤く見えます。
前記にも書いた、山と渓谷64号「丹澤・菰釣山附近」(清水長輝著)に「金山鉱山」のことが書かれております。
○鉱山跡(金山沢)
昭和15年11月号の山と渓谷64号「丹澤・菰釣山附近」(清水長輝著)鉱山跡を引用いたします。
・・・鉱山跡・・・
山神峰の下で分岐して(国境尾根から西丸に向かう旧道か?)水ノ木へ下る山伏経路は、すぐ下で親不知と云われ危ない桟道になるので、近時菰釣寄りの尾根を少し迂回するやうにつけられた。
経路を僅か下ると次の1220m圏峰との鞍部は大楢と呼ばれて、今は炭焼が入っている。
恰度ここから真西にあたって金山澤の1100m当たりに坑の跡があるらしい。徳川中期までは澤に面して石臼の残骸が列んでいたさうだ。日露戦争の頃鉄板や何かかつぎ出して売ったと云う話も残っている。
・・・引用終り・・・
金山沢が赤いことと、この鉱山跡との関係はあるのでしょうか?
樫の木林道が分岐する地点までくると広場となっていました。
その先から水ノ木林道は巾が狭くなり、樫の木林道はとても車が走れない林道です。
この対岸に建物跡がありますが今日はこれまでとします。
次回の調査は、切通峠やバラシマ峠と水ノ木をつないだ峠と思われる金山歩道を下って、建物跡の場所に下りその痕跡を探してみます。
ここも、製材所でしょうか?
帰りは長い浅瀬までの林道歩きがまっています。
浅瀬ゲートでは、Yさんが外の椅子に座り、山仕事を終えて帰って来る人を待っていました。
風人社代表Oさんは地蔵平で、「消えてしまう歴史を文章で残そう」いっておられました。
世附山の変貌する姿を知っているYさん、その話をお聞きして文章に残してたいと強く感じました。
○山神峠の山神
最後に、昭和15年11月号の山と渓谷64号「丹澤・菰釣山附近」(清水長輝著)から、「山神」の項を紹介して、終わります。
・・・山神・・・
水ノ木あたりですぐに話題にのぼるのは山神峠(さんじん)の祠の石に刻み込んである菊花紋章のことである。
峠の位置を地図で云うと水ノ木の東861峰そのその南797峰との鞍部にあたるところである。
25000分の1「御正体」図には神社記号が出ている。
昔は小山から今のアシ澤峠を越しワラ澤に入りこの峠を越して行くのが、水ノ木方面への唯一の通路であったやうだ。
現在道は荒れて峠附近以外は全く無くなってゐるが、祠には新しい旗が幾つも奉納されてあるから参拝者は割りにあるらしい。
水ノ木方面から道筋について述べてをく、軌道から山神澤へ入る所には御料林の火の用心が立ってゐて目標になっている。
山神澤はすぐ砂防の堰堤になってゐて、道が左側についてゐるが十間許りですぐなくなってしまふ、堰堤を越すと右から細いガレの窪がはいり、第2の堰堤にぶつかる。
おれを越して澤通し暫く行くと左から水のある小澤を合し、又暫くして
右手から水の少し垂れる枝澤を合流する。
この右手の枝澤を見逃がさずに掻き登ると其の内に道に合ふからこれに従ひじきに峠に達する。
小さい切通しを通って東側に一坪ばかりのトタン屋根の祠があり前に木の鳥居が二基立ってゐる。
祠の中には高さ二尺位の花崗岩の自然石があり前を四角く彫りとって将棋形の木片がはいってゐる。
その下に方二尺厚さ四寸許りの台石があり正面に問題の十六枚9菊花紋章と、その両側に三つ連った唐草模様が彫られてある。
又左側には新山小奉行、「白澤五右衛門」「木門文八」「乗原梅右衛門」「鈴木多門」、右側に「松尾市衛門」の名が列記せられ、裏面には
宝暦二壬申年(1752年)3月吉日と記されてゐる。
宝暦は徳川九代家重の時代で今から二百年足らず前である。
色々と話題を産むのはこの紋章でるが、種々の點から見てまづ皇室とは無関係だと云ってよいであろう。
新山小奉行と云う人は何者か分からないが、この地方が小田原藩の管轄であったとき、何れ山中の伐採でもやったので、山神の祠を寄進し偶然にもこの紋章を彫りつけたものだと思われる。しかし、この事についてはもっと類例を集めて紋章学的に研究して見たいものである。
ただこの菊花は複花辨をもたないから、現今皇室のものとは似て非なる事はつけ加えてをく。
これが一時後醍醐天皇に関する噂を産んで、この祠の下を掘るもの
が随分あったと云う話だ。
また、アシ澤の二軒家の上にも紋章はないが宝暦元年(1751年)の祠があって、そこでは小田原の通称後醍醐さんなる某が私財を費して掘ってゐる。
以上「山神」の項を引用しましたが、山神峠の山神社は、色々伝説があるようです。
茅ヶ崎市図書館には、前記の私財を費して宝を探しをした人が書いた本 「昭和12年3月記 吉野と足柄(和田久治著・自費出版・昭和14年)」があります。
悪沢流域のどこかに「黄金千盃、漆千盃、朱千盃」の宝が隠されているという。内容が難しく私には理解することが出来ませんでした。
○今回のまとめ
今回の調査では、3ヵ所の製材所の場所を明確にすることが出来ず、散発的な内容になってしまいました。
しかし、菰釣橋周辺が昔の水ノ木の中心地であったことがわかりました。今後調査を進めるうちに、この断片がつながって来るものと思われます。
何か水ノ木の情報がありましたら、お寄せください。
○おまけの写真
王子製紙梶@NPO森の響のログハウス
本州製紙は、王子製紙に合併された。
NPO森の響のログハウス
三保山荘に向かう吊橋の上にある謎の建物。
木の伐採で、建物全体が現われた。
昔、この周辺にあった受刑者が製炭作業をしたと云う建物か?
受刑者の製炭作業跡?
山と渓谷33号(昭和9年10月発行)「水ノ木澤から菰釣シ山」(加藤秀夫著)に出ている水ノ木監視所
「中川發電の取入口を眼下に瞰下する邊りに来ると道はぐつと高見に付けられそこから水路監視所の一軒屋は直きである。いつも愛想の良い御主人から御茶など饗れて一息人れる。」
水ノ木監視所?