世附山(西丹沢)・山神沢〜山神峠
水ノ木への旧道調査(まぼろばの山神との再会)


屋根を飛ばされた山神社

【日 時】 2007年9月23日(日) ・ 単独 曇り一時雨       
【コース】 自宅6:00 〜 世附ゲート7:30 〜 三保山荘 8:35 〜 悪沢二俣 9:30 〜 山神峠 10:55 11:10 〜 水ノ木雨観量測所入口 11:40 〜 水ノ木雨観量測所 12:25 〜 林道 12:40 〜 吊橋下 13:00 13:45 〜 峰坂峠道のガケ崩れ個所から土沢戻り14:35 14:45 〜 世附ゲート 16:30 〜 自宅 18:30
【資 料】
25000分の1地形図「駿河小山」・「御正体山」

●HP「ようこそ山へ」「太郎小屋山〜不老山〜世附峠〜悪沢峠〜峰坂峠〜土沢〜浅瀬」

●HP「おれの山紀行」「山神沢〜山神峠」

●HP「峠のむこうへ」「崩れゆく峠道」世附峠・悪沢峠(柳島峠)・峰坂峠(広河原峠)

【始めに】


「山神峠の山神」あれこれ

世附山(西丹沢世附川流域の山々)の真ん中に位置する「山神峠」の「山神」は、山神の研究者である佐藤芝明氏の著書「丹沢・桂秋山域の山の神々」によると、「まほろばの山神」と紹介されています。

同氏は、柳島の古老からその存在を聞き、山神に出会うまでには三度、山神探しに山に入ります。

2度目には、山神沢(悪沢)から山神峠を目指しますが出会うことが出来ません。3度目にして、ホリ木ノ沢(山神沢の反対側の沢)から峠に登り、出会うことができました。そして、つぎのような感想を書いています。

「めったに人が訪れなくなったこの山神に対座していると、異様な迫力とある種の畏怖感により、その場に足どめせれて動けなくなってしまうような錯覚にとらわれた……。」

(1)水ノ木への旧道

私は、この山神は誰もが知っていて、古くから信仰されていたのではないかと感じました。また、今はめったに人が訪れなくなったが、昔は一般的に利用されていた道で、そのために山神をここに祭ったのではないかと感じました。

それを、裏つける資料は「峠のむこうへ」さんから頂いた、「山と渓谷33号」に掲載されている加藤秀夫氏の紀行文、「水ノ木沢から菰釣シ山」に書かれていました。また、同じく「山と渓谷64号」に掲載されている(清水長輝著)「丹澤・菰釣山附近」という案内文の中にも同じ内容が書かれています。

以下は「山と渓谷64号」に掲載されている「丹澤・菰釣山附近」から一部を引用しました。

「昔は小山から今のアシ澤峠(悪沢峠)を越し、ワラ沢(悪沢)に入りこの峠を越していくのが、水ノ木方面への唯一の交通路であったようだ。現在道は荒れて峠附近以外は全く無くなっているが、祠には新しい旗が幾つも奉納されてあるから参拝者は割合にあるらしい。」

また、山と渓谷33号「水ノ木沢から菰釣シ山」ついては、水ノ木調査を参照してください。

また、明治21年に大日本帝国陸地測量部により測量された、2万分の1地形図には、前記の道が記載されています。

水ノ木に行くのに、わざわざ山神沢から峠に登ったのかは分かりませんが、世附川沿いの道には危険な個所があったのかもしれません。

さらに、山神峠からは、椿丸〜大栂〜菰釣山を越えて、道志村にぬける物資の闇ルートになっていたと、s-0kさんは「ようこそ山へ」HPの中で書いておられます。

山神峠は、古くは世附山の主要道の一部であったようです。
今回歩いた感じでも山神沢に問題となるような滝はなく、整備するば一般道として使用できそうでした。

(2)甲相国境紛争と山神

「山神」の台座正面には、16枚菊花紋章と唐草模様、その左側には、新山小奉行、白澤五右衛門、木門文八、乗原梅右衛門、鈴木多門。右側には松尾市衛門の名前、裏面には、宝暦二年3月吉日(1752年・徳川九代家重の時代)と刻まれています。

 江戸末期の「天保飢饉」のころ、世附山で甲斐と相模が国境を争った紛争が発生し、話し合いでは解決出来ず幕府評定所(当時の裁判所)に提訴されました。

その紛争は、8年の歳月と膨大な費用を費やして決着し、現在の県境が確定しました。

その時に、甲斐側が評定所に提出した文書の中に、峠の山神は、世附村(相模)と平野村(甲斐側)が共同で勧進したものであり、山神が境である。よって国境は、三国山・大棚・山神峠・二本杉峠・箒杉・犬越峠を結んだ線であると主張しています。

それに対して、相模側は、山神には小田原藩新山小奉行の名前が刻まれており、小田原藩が建立したものであって、国境は、三国山・山伏峠・菰釣山・大室山・両国橋(道志川)へと続く、尾根上と川が境であると主張し、両者の主張は大きく対立します。

これに対して、甲斐側は小田原藩新山小奉行の名前は、紛争が発生してから刻まれたもので、以前には無かったと主張しました。

最終的に、評定所役人が山神峠を含む問題の国境地帯をくまなく現地検分した結果、その裁許状(判決)の中には、山神に刻まれている「新山小奉行の名前は、新しく刻まれたものでは無い」との検分結果や問題国境の現地検分・証拠書類等から判断されて、相模側が勝訴します。

この紛争の中でも、山神の存在が大きな論点となっております。

峠の山神は、当時から広い範囲で認知されていました。(相甲国境紛争と公判の調査研究

(3)吉野と足柄(後醍醐天皇の世附日影御稜)

同じく、山と渓谷64号の「丹澤・菰釣山附近」には、山神について、以下のように書かれています。

「山神の菊花紋章が、後醍醐天皇に関するうわさを産んで、この祠の下を掘るものが随分あったと云う話だ、又アシ沢の二軒家の上にも紋章は無いが宝暦元年の祠があって、そこでは小田原の通称(後醍醐さん)なる某が私財を費して掘っている」と書かれています。


小田原の通称「後醍醐さん」は、和田久治さんといい、その人が昭和14年に発行した「吉野と足柄」という本が、茅ヶ崎市図書館に所蔵されていました。

以前一度見たことがありますが、内容が難しくあきらめましたが、今回コピーを取り再度挑戦をしてみました。
「吉野と足柄」を読むに当り、歴史に弱い私は、「相模のもののふたち(中世史を歩く)」(永井路子著)と山北町史で、鎌倉時代と南北朝時代の歴史を勉強しました。

その中で、新田義貞軍が鎌倉を一時奪還するが、足利軍を迎え討つに当り、鎌倉を出て堅固な山北の河村城に立てこもり戦ったことや、さらに、甲斐に逃げる途中に、峠に城を築いた場所が「城ヶ尾峠」であったことなども知りました。

小田原の通称「後醍醐さん」の件は、ページを改め書こうと思っておりますが、その内容は、世附山に「後醍醐天皇の御陵がある理由」と「発掘した結果」が書かれています。

1、御陵の根拠
(1)西丹沢の世附部落には、「世附山中日影山中央(又は中腹)に後醍醐天皇の陵まします」と、古来から口碑が伝えられている。

(*)場所は、世附川に悪沢が合流する付近です。日影山は、世附川本流左岸にある784mピークではないかと思われます。

(2)悪沢峠から下りて来た場所(王子製紙梶@NPO森の響のログハウスがある付近)には白旗社、川を挟んで反対側(悪沢合流点の左岸)には、「天獏魔王社」(テンマク魔王社)があって、天獏魔王社が「後醍醐天皇の御陵」の入口であると信じて、日影山に向けて地下道を発掘をしていきます。

(3)また、世附部落や都夫良野部落には、下記の謎歌があり、「朝陽さす夕日輝く山」が、日影山であると信じて、地下に埋設された「黄金千盃(両)・漆千盃・朱千盃」を掘りましたが結果は?

 @朝陽さす夕日輝く筒路が根   黄金千盃・漆千盃・朱千盃
 A朝陽さす夕日輝く其木の下に  黄金千盃・漆千盃・朱千盃
 B朝陽さす夕日輝く山の根に   黄金千盃・漆千盃・朱千盃
 C朝陽さす夕日輝く高山に    黄金千盃・漆千盃・朱千盃
 D朝陽さす夕日輝く地蔵堂    黄金千盃・漆千盃・朱千盃

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話がそれましたが、今回は山神峠へ旧道から登ってみました。下りは、dnさんから教えて頂いた、途中に「水ノ木雨観量測所」がある道を下り、土沢から峰坂峠へ歩けるところまで行ってみましたが、大きなガケ崩れの場所で引き返し、浅瀬に戻りました。



GPS軌道

カシミール3DとハンディGPSを使用して作成した「GPS軌跡」のページです。軌道が切れたり飛んだりしていますが、
修正してありません。そのような場所は、
衛星の電波を受信できない杉林のような場所です。
また、軌道は、1分隔で記録しております。また、画面の大きさに合わせて縮小していますので、
正確な縮尺はわかりませんがおおよそ25000分の1程度です。


この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び
数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平17総使、第87号)

黄色ルートは、軌道が取れなかったので、想定記入。



世附ゲートから林道を約1時間歩くと、世附川を左岸から右岸に渡る。
対岸に悪沢が合流する場所が見えて来ると、悪沢取水口へ向かう吊橋が下に見える。

吊橋を渡った先にある廃屋の「三保山荘」の横を通り、小屋の裏側の道を進む。

伐採作業はすでに終了し、道は綺麗に整備されている。

尾根の上に出るとかなり広い平坦地がり、良く歩かれている尾根の上を進むと、山神峠に向かう尾根筋から外れて、道は悪沢右岸に沿って山腹につけられている。

道が下りになると、沢が近づき分岐に着いた。
悪沢・山神沢分岐


取水口にコンクリートの塔があるが、取水口は確認しなかった。

ここから、左側の山神沢に入ると、水量が減り、靴を濡らすことなく歩くことが出来る。


悪沢取水口

右岸に微かに、旧道の面影が残っている。

江戸時代や鎌倉時代の人たちも、同じようにここを歩いていた。

と考えるだけで、たまらなくうれしくなった。



山神沢・旧道の面影

右岸から支流が合流する場所が滝になっているが、本流には一つも滝はない。

さらにその先にも、右岸から2本の滝が合流する。
支沢


上流部の二俣も、左側に入る。

そろそろ、山神峠に突き上げる支沢がある。

M−Kさんによると、山神峠への支流入口は、流木がふさいでいるとのことだが?

これらしき場所があるが、確信がもてない。すぐ先が二俣になっていれば間違いがないので、さらに先まで歩く。

二俣を見て、入口の支沢であることを確認する。
上部二俣を左側に入る

わずかな登りで、峠のキレットが見えてきた。

峠から下を見たときは、山神沢に下るはっきりした道跡があったが、沢の中に道跡は無い。旧道は山複を巻いているのだろうか?

さらにつめると、沢の源流部は、山神の正面に向かって行く。

山神が近づき驚いた。台風で祠が傾いたとM−Kさんが報告されていたが、屋根が飛ばされ、御神体がむき出しになっている。
山神台座正面の菊花紋章と唐草模様

屋根が飛ばされ、台座正面にある菊花紋章や唐草模様が良くわかる。

さらに、台座左側には、例の「新山小奉行」と4名の名前が刻まれている。意外と刻まれた文字が粗雑だ。

石に朱が入っているので、最近、拓本を取った人がいるようだ?

この山神は、玉子が帽子をかぶったような、面白い形をしている。
台座左側に新山小奉行の名前

三保山荘からここまで、一度も休まず歩いてしまった。パンをかじり、小休止する。

さて、山神沢から吹き上げた風で、飛ばされた屋根は、裏側の木に固定され動かない。当面は、このままの形が保たれそうだ。


峠さんの道標も健在だ。


今日は、dnさんから教えてもらった、途中に「水ノ木雨観量測所」のある道から下りてみる予定。

山神の祠の裏側から、尾根道をたどる。
最初は少し急な登りだが、標高差80メートルを登ると、なだらかな尾根となる。

なだらかな稜線を過ぎ、キツイ下りが終り平坦になった場所の右側に、踏み跡がある。
入口が少しヤブでわかりにくいが、少し進んでみると、踏み跡がある。

踏み跡は、下りではなく山腹をトラバースしている。
水ノ木雨観量測所への道

細いが、意外としっかりした踏み跡を追って、尾根を2本越えた。

その先にある、2本の沢を越える場所が、崩れて先の道が見つからない。

特に、最後の尾根に乗る前の沢がわかりにくいかった。

沢を渡って、山複をトラバースすることを、イメージすれば道はみつけやすい。

大きな尾根に出ると、上からも道が下っており、稜線からも下れるかもしれない。
水ノ木雨観量測所への道

尾根上を下って行くと、首をかしげてしまう看板がある。

「水ノ木雨観量測所」 、普通は、「水ノ木雨量観測所」ではないかと思うが、dnさん同様首をかしげてしまう。

建物がある場所だけが、切り開かれ明るくなっているので、小休止する。




建物から、さらに尾根道を下る。

道は明確ではないが、ペンキの目印がたまにある。

下って行くと伐採中の場所に出た。伐採のための道路が作られている最中だ。

工事中の場所をすぎると、「NTT世附川支 92」の電柱がある位置で、林道に出た。


林道に出た


しばらく歩き、世附川取水口入口から下り、吊橋をわたって河原で昼食にする。

カップうどんとお稲荷さんを食べ、ゆっくり休んでから、峰坂峠へに向かう。

土沢左岸にしっかりした道が踏まれている。峰坂峠の入口の目印は、「火の用心」の看板がある場所と、峠さんのHPに書かれている。





吊橋の下で昼食

ありました「火の用心」の看板。

早速、林の中に入り、土沢に向かうが、道は明確ではない。

水量が多い土沢を渡渉する場所がないので、上流に向かい歩いてみる。

かなり登って行って渡れそうな場所を見つけた。


土沢から峰坂峠への入口にある「火の用心」


対岸の道を探して、下るがはっきりした道はない。

尾根上に出ると、はっきりした踏み跡が見つかった。

さすが、以前は頻繁に利用されていた道だけあって、そのまま残っている場所は道幅が広い。


土沢を渡り対岸にある峰坂峠への道


しばらく、踏み跡を追ってトラバース道を行くと、前方に沢が見える場所で、ガケ崩れがあり道がすっぱり無くなっている。

ここが、s-okさんが越えられなかった場所であり、峠さんが沢に下りて、登り返した場所であることは間違いないようだ。

今日は、ここで引き返そう。ここを越えるのは困難だ。

ここを確認するれば、今日の目的は達成された。次回は、峰坂峠から下ってみよう。
沢が見える場所で、道は崩壊し進めず

靴をぬいて裸足で土沢を渡ったが、冷たい水が気持ちよかった。

土沢の道はどこまで続いているのだろうか? 歩いてみたくなる道だ。

ゆっくり林道を浅瀬に向かい歩いていると、釣り人に追い越される。




土沢を渡り戻る

釣り人による熊の目撃が、大棚沢・水ノ木橋・千鳥橋であったようだ、複数の熊ではなく同じ熊とのことだ。

今日は、ゲートで湯山さんの顔を見ることが出来なかった。
世附ゲート先にある釣り監視小屋の「熊情報」

ゲートの車が少なくなっていた。

10月14日で渓流釣りが終ると、11月15日間の狩猟の解禁までは、世附山に静かな時間が訪れる。





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